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風花が舞う日

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第1章 出逢い

  紺碧の空が、西に傾いた太陽とともにオレンジ色に染まりはじめる。手を伸ばせば届きそうな近距離に、シルエットとなった阿弥陀岳の巨体が、膨大な重量感をもって立ち塞がっていた。たなびく雲が時々刻々と彩を変化させていく。身も心も染まるような夕焼けは、明日の天気を約束してくれるのか?
  巳月鉄平はひとり赤岳石室の小屋前に出て、日没の光のシンフォニーを、まるで心を奪われたかのように凝視し感動していた。この心にまで響く感銘は、この場所、しかもこの瞬間のみに限られていた。何処にも自由に持ち帰ることなど出来ない、刹那の自然が織り成す最高の芸術だった。
 「夕焼けが綺麗ですねーェ」
  涼やかな女性の声に鉄平は驚いて後ろを振り返ると、残照に肌の白さを際立たせた若い女性が二人、鉄平を見つめてにこやかな笑みを見せていた。妙齢の女性の突然の話し掛けに、動揺を隠せない鉄平はただ「ハイ」と一言返すのがやっとだった。
 「心、此処にあらずのご様子で、熱心に夕景をご覧になっていらっしゃったので、声を掛けようかどうしようか迷ったんですが、ご迷惑でした?」
  姉とおぼしき女性が、丁重な口調で話し掛けてきた。
 「いえ、別に・・・」鉄平は至って寡黙な青年だった。
 「失礼ですけどお仲間は?」
 「僕、一人です」
 「単独行なの。いいわね、男性は。今日のコースはどちらからですか?」
  もう一人の妹らしき女性が、姉の上品な言葉遣いとは違う、快活で馴れ馴れしい口調で会話に割り込んでくる。
 「ハイ、今朝、渋ノ湯から黒百合平・中山峠・東天狗から西天狗をピストンして、夏沢峠・硫黄岳・横岳主峰を経て此処まで来ました」
  平素は口数が少ない鉄平だったが、こと山に関する話題になると人が変わったような饒舌になる。今も立て板に水の如く言葉が出てくる。
 「アラッ、それって縦走コースねっ」
 「はい、明日は主峰・赤岳からキレット小屋・権現岳・編笠山・観音平を経て小淵沢駅まで歩きます」
 「エーッ!駅まで?すごく長い距離があるわよっ。信じられない。それに南八ヶ岳の縦走を1泊2日で歩くなんて、聞いたこと無い」
 「アラッ、ハル姉さん、よく知ってるわね」
 「やっぱり、ご姉妹でしたか。お顔の輪郭が似てらっしゃると思いました。南八つ2泊3日は、多分古いガイドブックでしょ。今は中央線の列車事情が良くなって、短縮出来るようになりました。失礼ですが、お二人のコースは?」
 「昨日、美濃戸口から入って行者小屋に泊まり、今日阿弥陀岳に登り此処まで。明日は赤岳から真教寺尾根を下り、清里でもう1泊して一日買物したり遊んで帰ります。ホッホッホッホッ」
  妹の屈託の無い笑いが弾ける。
 「ホントはね、赤岳頂上小屋に泊まる予定だったんだけど、姉が頭が痛いって言うのよ。高山病の症状かもしれないから、少しでも標高が低い此処まで降りて来たの。ねッ、ハル姉さん」
 「いいのよ、いちいちそんなことまで・・・」
 「降りたのは正解でしたよ。赤岳は3,000m近い標高がありますから、その時の体調や体質で高山病に掛かることがありますからね。でも、仲の良いご姉妹でいいですね。で、頭痛の方は大丈夫ですか?」
 「ハイ、ありがとう。幾分楽になったみたいです」
 「そうだわ!今度何処かの山に連れて行って下さらない?ねェ、ハル姉さんいいでしょ?連れてってもらいましょうよ」
  姉はニコニコ微笑ながら「モモちゃんたら、初対面なのにご迷惑でしょ。だいいち私達と脚力が違い過ぎるわ」と鉄平の方に視線を向ける。
 「イエッ!僕の方はいっこうに構いませんよ」
 「ホラ、ご迷惑じゃないって。私、菖蒲百恵、姉は春奈でーす。よろしくね!」
 「遅くなりまして、僕、巳月鉄平と申します。よろしくお願いします」
 「そろそろ夕食の時間だわね。食後に住所交換しましょ」
  妹の百恵は行動派らしく、サッサと小屋の中に入って行った。
  八ヶ岳の主峰・赤岳山頂直下にある、僅かな平坦地に建てられた山小屋・赤岳石室で、はからずも出逢った鉄平28歳と、春奈25歳に百恵23歳二人の姉妹。赤岳石室は某作家の山岳小説の舞台にもなった場所である。

第2章 八ヶ岳レポート
     
  1週間後、鉄平は仕上がった写真数葉と、南八つ縦走レポートを同封して、姉妹宛て郵送する作業を楽しげにやっていた。写真はデジカメだから、パソコンでトリミングして、プリントアウトすれば簡単に出来る。帰宅して直ぐにでも仕上がったが、レポートになるとそうは簡単にいかない。結局、1週間も掛かってしまった。
  もう何回も推敲しパソコンに入力したレポートを、再び読み返してみる。
  コースが長丁場なので、1年で一番日照時間が長い6月下旬を選んだこと。幸先良く東天狗岳で雲海の上に立ち、360度の展望を満喫したこと。しかしその後、天候の激変に遭遇し、稜線上で冷たい強風に煽られ、指先がかじかみカメラがうまく操作出来なかったこと。この季節には珍しい風花が舞ったこと。
  硫黄岳山頂で濃霧に見舞われ、主峰赤岳の勇姿をカメラに収めるべく、岩陰で寒さを凌ぎながら、ガスの晴れ間を心待ちしたこと。その岩陰で寒風に耐え、健気に咲く高山植物を発見したこと。絶壁に設置された鎖場を、重いザックを背負ったまま乗り越えたこと。
  セーターを着て、美しい夕景に酔い痴れたこと。そして僥倖とも思える彼女達との出逢い。
  翌日、早朝の赤岳山頂で、頂上小屋への物資を空輸するへリコプターを間近かで見物したこと。ウグイスやヒヨドリなど、小鳥達の囀りに心を癒されたこと。
  権現岳へのアプローチで、20mもあろうかと思われる鉄梯子を登る途中でうっかり足元を覗き込み、高さ数100mの空間に浮いている自分に気が付き、恥ずかしながら股間が縮み上がったこと。
  編笠山の山頂は、山名の通り樹木が一本も生えていないドーム形で、巨岩がゴロゴロ積み重なっていたこと。流石に観音平経由で、小淵沢駅までの下りは距離が長く、疲労が蓄積した脚で、更に登山靴での舗装道路歩きが、超苛酷な煉獄地獄になったこと。等々が事細かに列記されていた。
  ふと鉄平は、文中の編笠山山頂の巨岩ゴロゴロの件(くだり)で、部屋の壁を見上げた。そこには壁一面に、鉄平自身がこれまで足跡を印した峰々の四つ切写真がズラリと並んでいた。その中の一葉、南アルプスの鳳凰三山・地蔵岳山頂の巨岩『オベリスク』が特に異彩を放っていた。
 「そうだ!彼女達を最初にガイドする山は、南アルプスの鳳凰三山にしよう。きっと彼女達はオベリスクの奇観にビックリするに違いないぞ」
  鉄平はそう呟くと、鳳凰三山行きを打診する追伸を書き添えていた。その時、母が階下から「夕食の支度が出来た」と知らせてきた。鉄平は「直ぐ行く」と答え、写真とレポートをしっかり封入し、通勤鞄にしまい込んだ。明日、会社の方から郵送するつもりだった。
  鉄平がダイニングルームに下りていくと、すでに父と母は食事をはじめていた。一人息子の鉄平と両親、家族3人が揃って食事が出来るのは、日曜日の夕食だけだった。
作品名:風花が舞う日 作家名:おだまき