雪国の梅花
3
会計を済ませ、店員の「ありがとうございました」の声にわずかに頭を下げる。雑誌を立ち読みしていたウタが駆け寄ってきて、飲み物が入った重い袋に手を通した。私は残されたもうひとつの袋を持って、彼の後ろに続いた。
風が吹かなければ春の陽気だ。道路脇に積み上げられた雪のひと粒ひと粒が陽を浴びて、ひとつずつ溶けていく。雪は陽射しに煌めいて、春の訪れに喜びの涙を流す。
「道を変えようか。農道の方歩こう。あっちなら車も来ないし」
無言で頷くと、ウタは進路を変えた。舗装された道路から農道に入ると、まだ誰も足を踏み入れていない漂白されたような雪に、ウタの足跡がつく。その足跡を上からなぞるようにして、歩いた。
「ちぃ、あそこの公園、覚えてるか?」
ビニールを提げた腕をぐいと上げて指した方向に、滑り台と短いベンチが置かれた公園が見えた。
「あぁ、よく遊びにきたよね」
兄とコウ兄が虫取りに行ってしまった後、私とウタは手を繋いで散歩をした。途中で見つけたのがその公園だ。農道と舗装道の間に無理矢理作られたような公園は当時まだ真新しくて、夏の日差しが照りつける滑り台は相当な熱を持っていて、滑ることができなかった。
ウタは少し歩みを速めた。
「ちょっと寄って行こうか」
「えっ、だって雪が──」
積もっているから、と言いかけた。後を追うと、見えてきた公園には誰かが何度も足を踏み入れた形跡があり、ベンチには雪が積もっていなかった。
「誰かが雪おろしでもしたのかも。ベンチも滑り台も乾いてるな」
黄色の低い柵の間をすり抜けた彼は、ベンチに手の平を当てる。
「うん、大丈夫。濡れてない。こちらどうぞ」
そう言って私に席を勧めた。ぎこちなく笑い、左に寄って座るとベンチの端にビニール袋を置く。彼は私の右に腰を下ろした途端、「あれ?」と声を上げた。
「何?」
「あの木……」
一度腰を落ち着かせたウタは再び立ち上がり、公園の隅に植わる木に吸い寄せられていく。
遠くから見ても分かる。その木が、何の木であるのか。そして枝の先端に、わずかながら薄桃色が広がりつつあることにも気付いた。
ベンチに戻るとウタは「ちぃの好きな梅の木だった」と嬉しそうに指をさす。
「ちぃは頑に、梅の花が好きだったよな。俺、すっげえ覚えてるよ」
細くも厳つい枝を伸ばす木を見ながら頷いて、遠い過去を思い返す。
「花見したよな、うちの横にある梅の木で」
「そうだね、したね」
少し俯いたのは、思い出したくないことまで思い出してしまったからだ。
「ウタ、この木綺麗!」
「この花、だろ」
ウタの手を引いて走り出した私に、彼はそう教えてくれた。ウタの家の近くには梅林があり、二月の末に訪れたそのときには、濃紅色から薄桃色まで色とりどりの梅の花が枝先を彩っていた。
「ねぇウタ、なんでこの木の下でお花見しないの? こんなに綺麗なのに」
彼は困ったように小首を傾げ、紅化粧した木を見上げる。
「別に、いいんじゃない? 梅の木でお花見したって」
私はその言葉に笑顔を突き出し「やろう!」とウタの手を握った。
「この梅はフェンスで囲まれてるだろ。だから入っちゃダメってこと。家の横に梅の木があるから、そっち行ってみよう」
今度はウタが手を引いたが、私はすぐ足を止めてしゃがみ込んだ。
「どしたの、ちぃ」
ウタの声が降ってくる。道の端に落ちていた、まだ形をとどめている梅の花をふたつ。手の平に乗せて立ち上がった。
「こんなに濃いピンク、何色って言うんだろうね」
「ピンクはピンクだろ、濃くても薄くても」
少し面倒くさそうな彼の頭に、手の平からつまみ上げた梅の花をひとつ、乗せた。視線が届かないことは分かっていても彼は目玉をぐるっと持ち上げて、渋いお茶でも飲んだみたいな顔をした。
「また女に間違われちゃうだろ」
そう言いつつ払い落とすこともせず、今度は彼が残りの花をつまみ取った。私の髪に触れて花をひとつ置くと、そのまま髪を撫でてくれる。
「ちぃ、梅の花が似合うな」
口の端をきゅっと持ち上げた彼に釣られて、私も笑顔になった。
再び歩き出すと、見知らぬおばあさんとすれ違った。
「あらぁ、お姉ちゃんとお揃いで、可愛いねえ」
ウタは私の耳元で「だから言っただろ」とささやき、顔を顰める。その声がくすぐったくてケタケタ笑い、おばあさんに「ばいばい」と言ってまた歩き出す。
ウタの家のすぐ傍に、梅の木があった。髪につけた梅の花と同じ、濃い桃色をしていた。
ひと握りのお菓子を渡しに手渡すと、ウタは梅の木の下に新聞紙を敷いた。二人座ってちょうどいい小さなスペースで、お菓子を食べることにした。
玄関の扉が開く音に目をやれば、ウタの家の向いから女の子が出てきた。
「こうた、何してんの?」
一見して気が強そうだと分かるその女の子は、訝しむような表情で私を睨みつける。
「花見。こいつ、俺のいとこのちぃ」
ふーん、と興味なさそうに一瞥し、何かのお稽古にでも行くのか、黄色の四角いキルティングのバッグを持って去っていった。
「あれから何日かして、自治会のお花見があってさ。今の嫁が俺の隣で言うんだよ。私、梅の木って嫌い、って」
俯いていた顔を少し起こし、「何で」とウタを見る。胸に湧いたのは微かな嫌悪だった。
「梅はいつの間にか咲いてて、いつの間にか散ってて、存在感がないから地味で嫌い。だってさ」
花なんてどれだってそんなものではないか。妙なほどに腹立たしかった。しかし過去に刃を突き立てたとしても何も変わりはしないし、大人げないにも程がある。
それでも私は、言っておきたかった。
「そういう所が、好きなんだ。いつの間にかそこにあって、いつの間にか消えちゃう。そういうちょっと儚いところ、好きだな。桜みたいに派手じゃないけど、確実に春を知らせてくれるところも好き」
ウタは広げた両膝に肘をついて、数回頷いた。
「そういえばさ、雀、覚えてる? 蝉取りしてて見つけたやつ」
記憶の迷路を辿る支度をして、しかしあっという間に鮮明に、目的の映像は脳裏に浮かび上がった。茶色いまだらの羽の色を思いながら「はぁ」と間の抜けた返事をした。
兄とコウ兄は山の奥にカブトムシを捕まえに行ってしまい、私はウタと二人で蝉取りをしていた。蝉なんて飽きるほどいて、捕まえる意気込みは十分ほどで失せた。空っぽの虫かごを肩から下げて手を繋ぎ、ぶらぶらと歩いていた時だった。
すぐ先のアスファルトに、ひらりひらりとはためく何かを見つけた。道路に張り付いたわら半紙の端っこが風に煽られているみたいだった。その色合いや大きさからして雀だと分かった途端、ウタから手を離して駆け寄った。
「ウタ、まだ生きてる! けど……なんか汚れちゃってる」
その場にしゃがむと、羽をばたつかせる雀を地面から拾い上げ、椀形にした手の平で温めるように包み込んだ。血が出ているのかそれとも別の体液なのか、とにかく濡れて黒ずんでいた。
「猫かカラスにやられたのかもな」
雀は手の平の中で暫く身じろぎをしていたのだが、二人の視線を知って安心したかのように、次第にその動きを弱くしていき、そしていつしか、動かなくなった。