雪国の梅花
1
アスファルトの上でアルミ缶を引きずるような濁音が聴こえた。まるで猫みたいに、耳だけが反応する。老朽化した玄関の引き戸の音だ。
海外の映画で見たことがあった。真っ白なオープンカーのテールに空き缶を幾つも吊るし、真っ白な服をまとった新郎新婦が入道雲を抱く青空の下ハネムーンに旅立つシーン。幸せな光景の中で聞くのならきっと、濁音だなんて思わないのだろうけれど、今は余りにも耳障りだ。
続いて襖が僅かに開いた。隙間から急激に流入した冷風が、広間に漂う線香の濁りをかき混ぜるけれど、希釈されることはない。
見覚えはない老女。九十度近く腰が曲がった彼女がつく杖はぐらついていて、危なっかしい。祖母の従姉にあたるらしいことを、後になって母から教えてもらった。
祖母が亡くなったのは週の半ばで、通夜葬儀はちょうど土日に重なった。仕事盛りの年齢に差し掛かった私と従兄弟らはひとりとして欠けることなく集まることになっている。孫世代ばかりが膨れ上がる通夜だ。
私には兄がいる。兄よりも歳が上の従兄が二人。私よりも歳下の従妹が四人。従妹たちと私は歳が離れていて、一緒に遊んだ記憶はほとんど残っていない。
幼いころは盆の前後に、祖父母が住むこの家に親戚一同が集うことになっていた。近所に同じ年端の女の子はおらず、私は兄と従兄の背中を追って山の中を探検したり、岩場をのぼった上にある大きな滝から足が届かないほど深い滝壺に飛び込んで遊んだりしたものだ。
とは言え、私はもっぱら味噌っかすのような存在だった。従兄の光輝と光太、兄の三人は滝の上に並び、両腕を前後に振って勢いをつけると、年齢順に飛び込むのだった。私は浮き輪に身を委ね、滝壺から少し離れた場所でぷかぷか浮いているだけ。筋肉のない薄っぺらいお腹を折るようにして楽しそうに笑う彼らが、とても羨ましかった。女ひとりは、どうしても大事にされがちなのだ。
「ちぃは女子だから、危ないからここにいろ」
年上の光輝が言えば、後の二人も無言で頷く。弟の光太はむくれる私に気付いたのだろう、飛び込みが終わる度に平泳ぎで寄ってきて声を掛けてくれた。
「ちぃもやりたいか」「ちぃは何してるんだ」「寒くないか」
そのひと言ずつが嬉しかった。光太が滝の上に立つと私は、深い水の中で足をばたつかせて少しでも滝壺に近付こうとしたものだ。
小さな体が一瞬、青空を背景に浮かぶ。陽光を受けて煌めいた小さな背中は魚を狙うトビのように急降下し、一瞬で滝壺に飲み込まれる。体が小さいから、跳ねる飛沫もまた小さかった。そしてすぐさま浮上すると光太は方向感覚を取り戻すためかぐるりと周囲を見渡し、私へと向かい泳ぎだす。ひと言ふた言声を掛けると背中を見せ、細かな波に反射する太陽の白をかき分けるように平泳ぎをして、再び滝へと向かっていく。
光輝と兄は長男同士で気が合うのか、いつも連れ立って遊んでいたから、私は光太と一緒にいることが多かった。光太は当時人気だった女性アイドル歌手にそっくりな顔立ちをしていて、一緒に歩いていると姉妹に間違えられることが幾度もあったぐらいに可愛らしい顔をしていた。五歳離れた光太のことを私は「ウタ」と呼び、ウタの手を握り散歩し、木苺をとりに行ったり、隣にしゃがんで花火をした。
一年のうちたった三日ほどしか会えないウタとの時間は貴重で、幼いながらも自分がウタに抱いている感情がどんな種類なのか、認識していた。もちろん、自分が通う幼稚園や小学校にも好意を寄せる男の子はいたのだが、ウタは別格だった。どんなに縋っても彼の隣でウエディングドレスを着ることは叶わない分かっていても、やはりウタが好きだった。
義母宅に遊びにいくと私はウタの部屋で、ウタのベッドの横に布団を敷いて眠った。六畳もない狭い部屋だったけれど、ウタとの距離が近い分には文句なんてなかった。一緒にお風呂に入っていたのは何歳までだったか。アルバムを開けば写真が残っているはずだ。
ウタのことが好きだった。三六五日の中で彼と過ごすことができる数日を、クリスマスよりも楽しみにしていた。
ウタの部屋の本棚に洋楽のCDが並ぶ頃になって、現実に目を向けざるを得なくなった。ウタは私の従兄だ。ウタにとって私は、妹みたいなものなのだ。
その頃を境に会う機会は激減した。そしてウタは進学・就職をし、幼馴染みと結婚をした。子供も生まれた。
私は彼の結婚から五年後、大学の同級生と結婚をし、子供を産んだ。
ウタが結婚したという話は、母が知らせてくれた。
「へぇ、そう。誰と」
知りたいことなんてその程度だ。身内だけで式は済んでいると聞いたし、ウタが結婚したからといって自分の生活には何の変化もない。そう、ひとつを除いて。
変わったこと。心のどこかで、透明な中に微かな気泡を詰め込んだ小さなビー玉がひとつ、甲高い音を立てて割れた。もちろんそれに気付いたって口に出すわけでもないし、誰かに報告するようなことでもない。
義母の家にはコウ兄が同居していて、遊びにいくと必ずコウ兄には会える。奥さんは数年前病気で亡くなったから、義父母とコウ兄、子供が三人。一方ウタは義母宅から車で二時間ほどかかる街に住んでいた。わざわざ会いに行く理由がない。ウタは建築士となり仕事に忙殺されていると聞いていたから、彼に会いにいくなんて迷惑以外の何ものでもないはずだ。
何しろ、奥さんも子供もいるのだ。気が引ける。
*
参列者が徐々に増え、引き戸のやかましい音にその都度反応なんてしていられなくなった頃、いつの間にかウタは到着していたらしい。背後から私の肩を叩き、振り向いた顔を見るるや否や「やっぱりちぃだ」と言って、静かに笑った。目尻には小鳥の足みたいな笑い皺が刻まれている。
「久しぶりだね」
ぎこちなく返すのが精一杯だった。逃げるように部屋の隅に移動すると、茶を汲んだ。
喪服を着ているせいなのか、十数年も会っていないせいなのか、もともと線が細い彼が更に痩せたように見える。最後に会ったのはウタが中学生の頃なのだから、三十五歳になった彼はそれなりに老けていた。だけど紛うことなく憧れのウタで、彼が同じ空間にいることを意識すると、動悸にも似た胸の痛みに苛まれる。
椿の花が描かれた茶碗に緑茶を注ぎ盆に置き、立ち上がる。ウタは少し離れた所から私をじっと見ていたけれど、それに気付いてしまうと私は俯くしかなくて、彼がその後も視線を縫い付けていたかどうかは分からない。
「運転お疲れ様」
ウタの膝の前に茶碗を置くと、立ち上る湯気の下で薄緑の水面が揺れる。
「今日は兄貴が運転してきたんだ。駐車場が足りないって話だったからさ」
あぁ、と縁側へ目をやった。石油ストーブで暑いほどとなった室温のせいで、窓は結露し外の様子は伺えない。しかし豪雪地の初春だ。除雪されているのは道路と民家の前だけ。空き地なんて都会の自販機のごとくそこらじゅうにあるのに、車を停めるためには除雪が必要だった。足腰の弱った祖父と葬儀の準備で忙しい叔父たちの手が回るはずがない。結局今日は、隣家の庭先にまで駐車させてもらっているらしい。