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がりがりがりがり…。
僕ははっと目を覚ました。
真っ暗だ。僕の感覚では確かに目を開いている筈なのに何も見えない。背と頭に固い物が当たりどうやら僕は仰向けで寝そべっているらしいと理解する。上半身を起こしてみると、ただ、真っ暗だった。僕の周りには何もない。本当に、何もない。ベットも机も椅子も建物も、何もないのだ。ただ僕だけがぽつんと、暗闇の中で独りいるようだった。そこで僕は気がついた。なんだ、これは夢だ。こんなに何もないところに行ったことはないし、この空間はとても広いようで、生活感というものがまるでなかったから、これは夢でしかあり得ない。そう納得すると、心がすとんと落ち着いた。
がりがりがりがりがりがり…。
異様な音がするのに気がついて、僕は真後ろを振り返った。
そこには、小柄な老人がいた。お世辞にも綺麗とは言いがたい、鈍色(にびいろ)の着物を着て、僕に背を向けて何かしている。何をしているのだろうか。そう考えている間にも音は続く。
「すみません」
僕はその老人に声をかけた。
がり…。
音が止まって、老人が振り返った。白髪(はくはつ)で、皺に埋もれた顔を見ると、年の頃は六十ぐらいだろうか?僕を見て、おやというように伸びきった眉毛をあげた。
「何をしてらっしゃるんですか?」
不思議と恐怖心はなく、僕は後ろから老爺(ろうや)の手元を覗き込んだ。
…111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111…
僕は唖然とした。数字の1の羅列、ただ1と言う字を老人は地面に木の枝で書いているのだった。
「1」という字の練習?もしくはアート、とか?これを遠くから見たら、モナリザの絵になっているのかもしれない。
「…これはなんですか?」
僕はもう一度聞いた。老人は僕を上から下まで、じろじろと見ると、すっと立ち上がった。
「ついてきなさい」
濁りのない美しい声だった。僕はすんなり頷くと、歩みの遅い老人にあわせるように、ゆっくりと後ろからついていった。
「きみは日本人だな?」
「え、ああ、はい」
明らかに日本語を話す老人が、純日本人の僕のどこを見てそう確認したのかはよくわからないが、とりあえず僕は頷いた。
「今は何年だ」
「え、っと、2012年、でした。確か」
曖昧なのは僕が大半の日本人と同じように、日常的に過ごしている年を意識していないからだ。まだ、2013年にはなっていなかった、はず。たぶん。
「2012年か」
老人は嗄(しゃが)れ声で独り言のようにぼそっと言った。
「オウム地下鉄サリン事件」
いきなり、老人は言った。なんだかこの空間に似つかわしくない単語を聞いた気がして、僕は面食らった。
「え、あの」
「世田谷一家惨殺事件」
老人は淡々と言った。
「JR福知山線脱線事故」
知っているかということだろうか?確かにどれもこれも聞いたことのある事件の名称だが…。
「秋葉原通り魔事件」
老人の歩みは止まらない。床にはびっしりと「1」が並び、しかし法則があるようで、時折途切れ、間を開け、また「1」が並ぶ。
「日本航空123便墜落事故」
老人の足が、ぴたりと止まった。
「知っているか」
やはり知っているかと問いたかったのだと僕はほっとしながら頷いた。
「はい。知っています。御巣鷹山(おすたかやま)の…ですよね?」
「どういう事故だった」
「ええ、と、飛行機が墜落して、多くの人が死んだと…」
「520人だ」
老人は続けた。
「生存者は4人だった」
僕は驚いた。520名という死亡者数よりも、生存者の4名という数に。520という数は、僕の身近にはなくリアリティをもてず、とりあえず沢山死んでしまったんだと思った。そんなにすごい事故だったのか…その頃生きていなかった僕には事故の強い記憶はない。伝え聞いた情報だけだったから、改めてその数に驚いた。
「そう…なん、ですね」
なんと言って良いかわからず、僕は曖昧に頷いた。
「520という数がわかるか」
「は、い?」
老人がどういう意味で問うているのかがわからず、僕はこれまた曖昧に頷く。
「数・・・は、わかると思いますけれど・・・」
「見ろ」
老人が指を指した。地面だ。僕は見た。
…111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111…
今まで見た「1」となんの変化がある訳もなく、ただただずらりと「1」が続く。これがなんだというのだろう。
「なんですか?なにかあるのですか?」
僕は地面に顔を近づけてみた。棒が一本引かれたような乱雑な「1」。いや待て、やっぱりこれは数字の「1」ではないのか?雨…とか?
「これが、520だ」
僕は、はっとした。慌てて身を引く。そうか、これは!
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僕は地面から老人に目を移した。老人の瞳は凪いでいた。僕はいつの間にか、全身にじっとりと汗をかいていた。
数えるまでもなかった。これは520ある筈だ。つまり、これは全て人なのだ。
これがすべて、ひとなのだ…。
僕ははっと目を覚ました。
真っ暗だ。僕の感覚では確かに目を開いている筈なのに何も見えない。背と頭に固い物が当たりどうやら僕は仰向けで寝そべっているらしいと理解する。上半身を起こしてみると、ただ、真っ暗だった。僕の周りには何もない。本当に、何もない。ベットも机も椅子も建物も、何もないのだ。ただ僕だけがぽつんと、暗闇の中で独りいるようだった。そこで僕は気がついた。なんだ、これは夢だ。こんなに何もないところに行ったことはないし、この空間はとても広いようで、生活感というものがまるでなかったから、これは夢でしかあり得ない。そう納得すると、心がすとんと落ち着いた。
がりがりがりがりがりがり…。
異様な音がするのに気がついて、僕は真後ろを振り返った。
そこには、小柄な老人がいた。お世辞にも綺麗とは言いがたい、鈍色(にびいろ)の着物を着て、僕に背を向けて何かしている。何をしているのだろうか。そう考えている間にも音は続く。
「すみません」
僕はその老人に声をかけた。
がり…。
音が止まって、老人が振り返った。白髪(はくはつ)で、皺に埋もれた顔を見ると、年の頃は六十ぐらいだろうか?僕を見て、おやというように伸びきった眉毛をあげた。
「何をしてらっしゃるんですか?」
不思議と恐怖心はなく、僕は後ろから老爺(ろうや)の手元を覗き込んだ。
…111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111…
僕は唖然とした。数字の1の羅列、ただ1と言う字を老人は地面に木の枝で書いているのだった。
「1」という字の練習?もしくはアート、とか?これを遠くから見たら、モナリザの絵になっているのかもしれない。
「…これはなんですか?」
僕はもう一度聞いた。老人は僕を上から下まで、じろじろと見ると、すっと立ち上がった。
「ついてきなさい」
濁りのない美しい声だった。僕はすんなり頷くと、歩みの遅い老人にあわせるように、ゆっくりと後ろからついていった。
「きみは日本人だな?」
「え、ああ、はい」
明らかに日本語を話す老人が、純日本人の僕のどこを見てそう確認したのかはよくわからないが、とりあえず僕は頷いた。
「今は何年だ」
「え、っと、2012年、でした。確か」
曖昧なのは僕が大半の日本人と同じように、日常的に過ごしている年を意識していないからだ。まだ、2013年にはなっていなかった、はず。たぶん。
「2012年か」
老人は嗄(しゃが)れ声で独り言のようにぼそっと言った。
「オウム地下鉄サリン事件」
いきなり、老人は言った。なんだかこの空間に似つかわしくない単語を聞いた気がして、僕は面食らった。
「え、あの」
「世田谷一家惨殺事件」
老人は淡々と言った。
「JR福知山線脱線事故」
知っているかということだろうか?確かにどれもこれも聞いたことのある事件の名称だが…。
「秋葉原通り魔事件」
老人の歩みは止まらない。床にはびっしりと「1」が並び、しかし法則があるようで、時折途切れ、間を開け、また「1」が並ぶ。
「日本航空123便墜落事故」
老人の足が、ぴたりと止まった。
「知っているか」
やはり知っているかと問いたかったのだと僕はほっとしながら頷いた。
「はい。知っています。御巣鷹山(おすたかやま)の…ですよね?」
「どういう事故だった」
「ええ、と、飛行機が墜落して、多くの人が死んだと…」
「520人だ」
老人は続けた。
「生存者は4人だった」
僕は驚いた。520名という死亡者数よりも、生存者の4名という数に。520という数は、僕の身近にはなくリアリティをもてず、とりあえず沢山死んでしまったんだと思った。そんなにすごい事故だったのか…その頃生きていなかった僕には事故の強い記憶はない。伝え聞いた情報だけだったから、改めてその数に驚いた。
「そう…なん、ですね」
なんと言って良いかわからず、僕は曖昧に頷いた。
「520という数がわかるか」
「は、い?」
老人がどういう意味で問うているのかがわからず、僕はこれまた曖昧に頷く。
「数・・・は、わかると思いますけれど・・・」
「見ろ」
老人が指を指した。地面だ。僕は見た。
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今まで見た「1」となんの変化がある訳もなく、ただただずらりと「1」が続く。これがなんだというのだろう。
「なんですか?なにかあるのですか?」
僕は地面に顔を近づけてみた。棒が一本引かれたような乱雑な「1」。いや待て、やっぱりこれは数字の「1」ではないのか?雨…とか?
「これが、520だ」
僕は、はっとした。慌てて身を引く。そうか、これは!
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僕は地面から老人に目を移した。老人の瞳は凪いでいた。僕はいつの間にか、全身にじっとりと汗をかいていた。
数えるまでもなかった。これは520ある筈だ。つまり、これは全て人なのだ。
これがすべて、ひとなのだ…。