引きとめられた夜(改題)
先日は極端に凶悪な乗客を乗せてしまったことを想うと、私は不思議に思った。最悪の乗客を乗せてから間もない今日、今までで最も嬉しい乗客と出会ったのである。もうタクシーはやめようと思っていた。それを阻止するように、最高の気分にしてくれたひとと出会ったのである。
「こんなに感動したのは久しぶりです。クリント・イーストウッドの映画が一番好きです」
女性客はその映画の制作監督でもある主演男優が大好きなのだと重ねて云い、ほかの幾つかの主演映画のタイトルを並べた。
「英語を話せるなら、彼と話してみたいと思いますね。映画でしか知らない人物なんですが、彼は最高に優しい心を持つ人間だと思います。私も大好きです」
そのようにふたりで盛り上がっていたが、残念ながら目的地に着いてしまった。私はキツネにつままれたような気分だった。女性客は勤務先を教えてから、
「あなたの小説、全部読ませて頂きます。転勤で東京に来ましたけど、わたしは関西人なんです。四月からまた関西に戻りますけど、向こうへ帰ってからも読ませて頂きます。頑張ってください」
暗いのでよく判らなかったが、女性客は眼を潤ませているような気がした。
「そうなんですか。でも嬉しいです。それでは、五千七百八十円を頂きます」
女性客はカードで支払いたいと応えた。カードリーダーに預かったカードをスライドさせると、伝票が印刷された。それに氏名を記入してもらった。それは、楷書で書かれていた。
私はその美しい女性客の名前と、住んでいるマンションと、勤め先を知った。三月の末頃に私は花束か絵を贈ることができるかも知れないと思った。私は彼女よりかなり年上なので、実際にはそんなことはできないと思いながら、そう思った。
了
作品名:引きとめられた夜(改題) 作家名:マナーモード