十六夜(いざよい)花火(前編)
「健さん、行きましょうか」
翌朝、中井のドアを叩く音が響いた。ドンドンドン・・。
「健さん、遅くなりますよ〜」さらにせかすように中井はドアを叩く。
ガチャリ・・・
「なぁ〜に・・有田さんは隣よ」加奈子ははだけた浴衣のままドアを開け、中井に言った。
大きな胸がこぼれそうな加奈子の姿を見て驚いた中井は、
「す、す、すいませ〜ん、間違えました〜」と見てはいけないものを見たように後ずさった。
その時、隣のドアが開き健三が出てきた。
「なんだ朝っぱらからガタガタしやがって・・・早すぎるんだよ、馬鹿が・・・」
健三はそう言いながらドアを閉めようとすると、朝から色気を出し過ぎる隣の加奈子を見つけた。
「な、な・・・おい、おい・・」
健三も見てはいけないものを見てしまったようで慌てた。
「あら、行ってらっしゃ〜い・・・後でね」
そう言うと加奈子はボォーッと立ったまま手を振った。
健三は加奈子に何か言おうとしたが、中井を見て「さっさと行くぞ」と大きな声を出した。
中井は頭をへこへこさせながらにやついてる。
「あっあっ、すいません‥行ってきます」
中井は健三の後を追いかけながら振り返り振り返り、加奈子にお辞儀をして出かけて行った。
エレベーターの中で「すごいっすね〜」と言いながら、中井は自分の胸の前で大きなふくらみがあるようなジェスチャーで手を動かした。
「どんな関係ですか」と聞きたかったが、先輩に張り倒されそうなので自粛した。
その日は8時間ぶっ通しで準備に追われた。真夏の港の堤防は40度に近い温度だったが、時折吹いてくれる海風が幾分涼しさを運んできてくれた。
健三は夕方5時にすべての準備を終え、一度大会本部があるテントに顔を出した。最終打ち合わせと後片付けの確認だった。もうすでにかなりの観客が集まりだしている。すべての準備を終えると健三は加奈子に電話した。
「おう、俺だ。どこにいる?」
「健ちゃんとこの会社のトラックのそば。横に中井さんがいるわよ」
「あ〜そこか、じゃ、そこで待っててくれ、すぐ行く」
健三はヘルメット姿に作業服のつなぎを着て加奈子の前に現れた。手にはもう一つ黄色いヘルメットを持っていた。
「ほらこれ。今日の花火は足場が悪いから。すぐ近くまでは行けない」
と言って、港に浮かぶ堤防を指差し、手に持っていたヘルメットを加奈子に渡した。
「ここならいいから、中井と一緒に見ていてくれ。出来ればトラックの中にいたほうがいいぞ」
「えっ、ここも危ないの?」
「関係者以外は立ち入り禁止区域だから、ここからも、ほぼ真上に見える。時々爆発しない花火が落ちてくるから頭に気をつけろよ」
「そんなのが落ちてくるの・・・」
「ああ、だから車の中が安全だ。エアコンも効くし快適だぞ。中井の言う事を聞いてくれ。危ないから」
そう言うと健三は中井にいろいろ指示を出し、最後に弁当を取りに行かせた。
中井が「姉さん、よかったですね。なかなかこんなとこじゃ見れませんよ」と言って調子よく出て行った。
「健ちゃん、邪魔じゃなかった?」と加奈子が聞いた。
「滅多に女は入り込まないが、いいんじゃないか。だけど、気をつけろよ」
「うん、わかった」
「いつ帰るんだ」
「明日」
「・・・・トラックだけど乗って帰るか?」
「いいの?」
「話し相手がいたほうが眠くならねぇ・・・それとも新幹線にするか?」
「ううん、トラックでいい。なんだか知らないことばかりでわくわくしちゃう」
「男ばっかりで汚いし危ないし、加奈子は嫌がるかと思ってた」
健三は汚れたタオルでヘルメットの中の頭を拭いた。夏の巡業のせいで健三の顔は真っ黒だ。作業服の襟も袖口もボロボロに汚れていた。
「健ちゃん、洗濯はどうしてる?」
「いつもまとめて洗ってるさ」
「美香がいなくなったら大変だね。自分でしないんでしょ」
そうだった。今まではそういう家事は全部妻である美香が当たり前のようにやってた。離婚するとしたらこれからは全部自分でやらなければならないのだ。洗濯機の動かし方さえよくは知らない。当たり前だったことがなくなるというのは寂しい。いかに自分は自分の事しかしてこなかったかというのを身につまされた。
健三は離婚する現実を突き付けられたようだった。
中井が持ってきた弁当を業者も入れ全員で車座で食べた。男ばかりの集団だが、みんな花火を打ち上げる前だからであろうか機嫌がいい。
それはそうだろう、この日の為にみんな努力をしてきたのだ。花火好きの世渡りが上手くない連中が一丸となって観客の感動を誘う。縁の下の力持ち達の出番がやってきたのだ。誰もが興奮気味でよく笑いあう。
加奈子はそんな男たちの中心にいる健三を見てますます好きになった。泥臭く、パッと見はよくない中年の親父たちが子供のようにはしゃいでいる。加奈子の知らない世界がここにあった。
今迄の知っている男達はどこか女の目を気にして、おしゃれだったり気が利いた会話だったり健三達とは反対の垢抜けた世渡り上手な男達が多かった。
加奈子は健三が心底笑う姿を初めて見た気がした。もっと健三の事を知りたくなった。中学生の時の初恋の相手ではなく、改めて健三という男を知りたくなった。
20時の花火打ち上げ時間にあと1時間となったところで、男たちはそれぞれの持ち場に散って行った。健三もボートに乗り、沖の大型花火を打ち上げる防波堤に向かった。最終点検をしてあとは開始時間を待つばかりだ。無線機からは健三の指示が聞こえてきた。
「おい、中井。お客さん近づけるなよ」
「はい、わかりました」
中井は加奈子の方に来ると「危ないから、そこからあまり離れないでください」と言った。
お客さんとは私の事だったんだと気が付いた加奈子は、少し緊張した。
作品名:十六夜(いざよい)花火(前編) 作家名:海野ごはん