恋愛小説
片想い
「ゴ注文ハ」
給仕ロボットのジルが訊ねた。優しい女の声に変換された心地良い音声だ。そういえば士朗はまだ、酒をオーダーしていない。
「同じものを」
匡介のグラスを指さしてから士朗は大きく吐息をつき、奏の残したデータメモリに目を落とした。匡介が横で睨むので、士朗はあきらめて携帯をジャケットのポケットへしまった。
ジルが差し出すグラスを士朗の前に取ってやりながら、
「どうしたんだ。めずらしいじゃないか。こんな時間に一人で来るなんて」
と、匡介は士朗を覗き込んだ。
士朗は、ロックグラスの中へ、添えられた櫛切のライムを絞って投げ入れた。軽く回して、一口つける。
「部屋で飲むと、深酒しそうで」
「マドンナか」
そんな状態になってしまうのは、依子のことしか思いつかない。
「…搭乗以来、避けられてる」
士朗は、重い口を開いた。
「思い過ごしだ。彼女も忙しいんだろ」
匡介は、気にもとめないようすで煙草に火を点けた。
いや、思い過ごしなどではなかった。出航間もなく体調の回復した依子が礼を言いに訪ねて来たときに、士朗は異変に気づいたのだった。不自然なほど儀礼的で、ろくに目を合わそうともしない。士朗と依子はこの数ヶ月、同じ目標に向かって同じ時間を共有して来た。そんな中、依子はごくたまにではあったが狎れあいの空気を醸し出すようにもなっていた。士朗の冗談に、つい朗らかに笑ってしまったあと「ごめんなさい」と、頬を赤らめる可愛らしさに、士朗は何度も抱きしめたくなったものだ。ところが、その日を境に、依子は完璧な敬語に戻ってしまった。
「心配しなくても、マドンナはお前のことが好きだよ」
「だと、いいが」
――やれやれ。恋するオトコにはつきあいきれん。
匡介は、いささかしらけてナッツを噛み砕いた。叶邸で婚約発表されたあの夜。騒ぎの中で、士朗の姿をまっすぐにとらえて離さなかった依子の瞳を、匡介は今でもはっきりと憶えている。あれは確かに恋する女のそれだった。だからこそ、自分は士朗にあきらめるなと言ったのだ。そして、士朗はあきらめなかった。結果、二人の執念が実を結び、今、現に依子は、手を伸ばせば触れられるところにいるではないか。
「打ち解けないとしたら、何か理由があるんだろ。そうじゃなくてもマドンナにはとらえどころのないところが、最初からあったじゃないか」
そんなことはわかっている。依子が他の男のものになってしまうという恐れから解放されている今、関係が思うように進展しないからといって焦る必要はない。塞ぐ気持ちを懸命に励ましてみるが、心は晴れなかった。さあ、これからだという矢先の依子の頑なな態度に、士朗はちょっと立ち直れないほど打ちのめされていた。手が届くどころか、依子は自分からどんどん遠ざかっていくような気さえする。
肩を落とし、ぼんやりと酒を飲んでいる士朗に、匡介は以前から訊いてみたいと思っていたことを口にしそうになった。
「あのさ。おまえ」
言いかけて匡介が口をつぐんでしまったので、士朗は訝しげに顔をみた。
「なんだよ」
「その…なんだ」
匡介は士朗の視線を避けるように、壁に掛かった数秒毎に形を変えていくオブジェに気をとられているふりをしながら、
「女の子を好きになったのはマドンナが初めてなのかな、と」
一気に言った。
一瞬、キョトンとした表情をみせたが、次の瞬間、士朗は質問の真意を確かめようと、匡介の瞳を探った。目を逸らして、バツが悪そうにグラスに口をつける匡介に、
「ああ。そういうこと」
と、無感情に士朗は言った。
「あるよ」
こともなげに答え、ナッツを口に運ぶ。
匡介の予想としては半々だった。…半々。そう思った理由は“なんとなく”だ。いや、こんなにも依子に恋い焦がれる士朗が、もし女を知らないとしたら、それこそ危険(であり、気持ち悪い)と、どこかで思っていたからだろう。
だから、その返答に匡介はホッとした。と同時に、違う疑問が首をもたげてくる。相手は誰だ。匡介は、士官学校の高等部の時分に士朗と仲が良かった女学生の顔を思い浮かべてみた。あの娘か、いやまさか。違うな、じゃあ大学か。そんな気配を、俺が見逃すわけがないんだが。
「コスモスさ」
匡介の無言の詮索に、士朗はあっさり白状した。
―― あの辺境に、妙齢の女性が?
匡介にインプットされている、銀河一の女性データベースのサーチが再開される。
「ノーマ!」
データベースは、匡介の記憶の中に一枚の画像を投影させた。豊かな黒髪と陽気でグラマラスな…。
「あのラテン系。…マジか」
答える代わりに、士朗は酒の追加をした。
「ちょっとまて。そりゃ、彼女はチャーミングな女性だけど。あの感じは、けっこう上じゃなかったか?」
「8つ、かな」
「……」
匡介は絶句した。これは、飲まずにはいられない。残りの酒をあおり、
「俺も」
と、ジルを呼んだ。
「彼女は、きれいで賢くてオタクで、とても魅力的だった。そうして、俺たちはとにかく気が合ったんだ。新しい言語を使って、どっちがより複雑で面白いゲームが作れるかを競ったりした」
士朗は、昔を懐かしむように、両手でグラスを回しながらその中に視線を落とした。
「彼女と話してると飽きることがなかった。話題が豊富で酒も強い。仕事を終えたあとも毎晩何時間も飲み明かした。だからごく自然にそういう関係になった。セックスも例外ではなく、とても楽しかった」
「…うらやましい」
匡介の咽喉が鳴る。
実際、彼女は性の手管にも長けていた。経験のない自分が評価できる立場ではないが、たぶんあれは極上の部類ではなかったかと、士朗は密かに思う。
「アニバーサリーには隠し持ってた燃料を使って、保存食をステキなディナーに変身させてみせた。とにかく、ノーマは何にでもセンスのあるひとだった。そしてとても可愛いひとだった」
「どれぐらいつきあってたんだ」
「二年弱かな」
そこそこの年月だ。せっかくの青春時代を辺境の地に追いやられてしまった士朗に同情していた自分が馬鹿馬鹿しくなる。なんだ。ちゃんと大人の恋愛をしていやがるじゃないか。さすが俺の親友だ。匡介はちょっと嬉しくなった。女を知らずして依子に血道をあげているのでなくてほんとに良かった。しかし、
「好きだったのか」
「もちろん。好きでもない女を抱くかよ」
「……」
「あ。失敬」
ちっ! 癪にさわるヤツだ。
「おい。俺だって好きじゃない女とは寝ないぜ」
「お前の好きじゃない=めんどうくさい女…だろ」
「俺の話はほっとけ。続けろよ」
他人の色恋に興味津々の匡介に苦笑し、
「それだけだ。ぜんぶ話した」
と、士朗は両手の指を開いてみせた。
「なんで別れたんだ」
「彼女が異動になったからさ。俺より半年先に地球へ帰った。その後、風の便りで故郷の幼馴染と結婚したと聞いた」
「ふうん」
カウンターを掴みながら大きく足を組み直し、匡介は顎を掻いた。
「その。ショック…とか、なかったのか」
「それが、ないんだ。不思議と」
士朗は、すがすがしい表情で酒を口に運んだ。
「彼女には幸せになって欲しいと心から願ってる。もし、彼女がピンチであればいつだって飛んでいきたい。今でも本気で思っているよ。でも、彼女が別れた男にそんなこと求めっこない。そういうひとだ」
「ゴ注文ハ」
給仕ロボットのジルが訊ねた。優しい女の声に変換された心地良い音声だ。そういえば士朗はまだ、酒をオーダーしていない。
「同じものを」
匡介のグラスを指さしてから士朗は大きく吐息をつき、奏の残したデータメモリに目を落とした。匡介が横で睨むので、士朗はあきらめて携帯をジャケットのポケットへしまった。
ジルが差し出すグラスを士朗の前に取ってやりながら、
「どうしたんだ。めずらしいじゃないか。こんな時間に一人で来るなんて」
と、匡介は士朗を覗き込んだ。
士朗は、ロックグラスの中へ、添えられた櫛切のライムを絞って投げ入れた。軽く回して、一口つける。
「部屋で飲むと、深酒しそうで」
「マドンナか」
そんな状態になってしまうのは、依子のことしか思いつかない。
「…搭乗以来、避けられてる」
士朗は、重い口を開いた。
「思い過ごしだ。彼女も忙しいんだろ」
匡介は、気にもとめないようすで煙草に火を点けた。
いや、思い過ごしなどではなかった。出航間もなく体調の回復した依子が礼を言いに訪ねて来たときに、士朗は異変に気づいたのだった。不自然なほど儀礼的で、ろくに目を合わそうともしない。士朗と依子はこの数ヶ月、同じ目標に向かって同じ時間を共有して来た。そんな中、依子はごくたまにではあったが狎れあいの空気を醸し出すようにもなっていた。士朗の冗談に、つい朗らかに笑ってしまったあと「ごめんなさい」と、頬を赤らめる可愛らしさに、士朗は何度も抱きしめたくなったものだ。ところが、その日を境に、依子は完璧な敬語に戻ってしまった。
「心配しなくても、マドンナはお前のことが好きだよ」
「だと、いいが」
――やれやれ。恋するオトコにはつきあいきれん。
匡介は、いささかしらけてナッツを噛み砕いた。叶邸で婚約発表されたあの夜。騒ぎの中で、士朗の姿をまっすぐにとらえて離さなかった依子の瞳を、匡介は今でもはっきりと憶えている。あれは確かに恋する女のそれだった。だからこそ、自分は士朗にあきらめるなと言ったのだ。そして、士朗はあきらめなかった。結果、二人の執念が実を結び、今、現に依子は、手を伸ばせば触れられるところにいるではないか。
「打ち解けないとしたら、何か理由があるんだろ。そうじゃなくてもマドンナにはとらえどころのないところが、最初からあったじゃないか」
そんなことはわかっている。依子が他の男のものになってしまうという恐れから解放されている今、関係が思うように進展しないからといって焦る必要はない。塞ぐ気持ちを懸命に励ましてみるが、心は晴れなかった。さあ、これからだという矢先の依子の頑なな態度に、士朗はちょっと立ち直れないほど打ちのめされていた。手が届くどころか、依子は自分からどんどん遠ざかっていくような気さえする。
肩を落とし、ぼんやりと酒を飲んでいる士朗に、匡介は以前から訊いてみたいと思っていたことを口にしそうになった。
「あのさ。おまえ」
言いかけて匡介が口をつぐんでしまったので、士朗は訝しげに顔をみた。
「なんだよ」
「その…なんだ」
匡介は士朗の視線を避けるように、壁に掛かった数秒毎に形を変えていくオブジェに気をとられているふりをしながら、
「女の子を好きになったのはマドンナが初めてなのかな、と」
一気に言った。
一瞬、キョトンとした表情をみせたが、次の瞬間、士朗は質問の真意を確かめようと、匡介の瞳を探った。目を逸らして、バツが悪そうにグラスに口をつける匡介に、
「ああ。そういうこと」
と、無感情に士朗は言った。
「あるよ」
こともなげに答え、ナッツを口に運ぶ。
匡介の予想としては半々だった。…半々。そう思った理由は“なんとなく”だ。いや、こんなにも依子に恋い焦がれる士朗が、もし女を知らないとしたら、それこそ危険(であり、気持ち悪い)と、どこかで思っていたからだろう。
だから、その返答に匡介はホッとした。と同時に、違う疑問が首をもたげてくる。相手は誰だ。匡介は、士官学校の高等部の時分に士朗と仲が良かった女学生の顔を思い浮かべてみた。あの娘か、いやまさか。違うな、じゃあ大学か。そんな気配を、俺が見逃すわけがないんだが。
「コスモスさ」
匡介の無言の詮索に、士朗はあっさり白状した。
―― あの辺境に、妙齢の女性が?
匡介にインプットされている、銀河一の女性データベースのサーチが再開される。
「ノーマ!」
データベースは、匡介の記憶の中に一枚の画像を投影させた。豊かな黒髪と陽気でグラマラスな…。
「あのラテン系。…マジか」
答える代わりに、士朗は酒の追加をした。
「ちょっとまて。そりゃ、彼女はチャーミングな女性だけど。あの感じは、けっこう上じゃなかったか?」
「8つ、かな」
「……」
匡介は絶句した。これは、飲まずにはいられない。残りの酒をあおり、
「俺も」
と、ジルを呼んだ。
「彼女は、きれいで賢くてオタクで、とても魅力的だった。そうして、俺たちはとにかく気が合ったんだ。新しい言語を使って、どっちがより複雑で面白いゲームが作れるかを競ったりした」
士朗は、昔を懐かしむように、両手でグラスを回しながらその中に視線を落とした。
「彼女と話してると飽きることがなかった。話題が豊富で酒も強い。仕事を終えたあとも毎晩何時間も飲み明かした。だからごく自然にそういう関係になった。セックスも例外ではなく、とても楽しかった」
「…うらやましい」
匡介の咽喉が鳴る。
実際、彼女は性の手管にも長けていた。経験のない自分が評価できる立場ではないが、たぶんあれは極上の部類ではなかったかと、士朗は密かに思う。
「アニバーサリーには隠し持ってた燃料を使って、保存食をステキなディナーに変身させてみせた。とにかく、ノーマは何にでもセンスのあるひとだった。そしてとても可愛いひとだった」
「どれぐらいつきあってたんだ」
「二年弱かな」
そこそこの年月だ。せっかくの青春時代を辺境の地に追いやられてしまった士朗に同情していた自分が馬鹿馬鹿しくなる。なんだ。ちゃんと大人の恋愛をしていやがるじゃないか。さすが俺の親友だ。匡介はちょっと嬉しくなった。女を知らずして依子に血道をあげているのでなくてほんとに良かった。しかし、
「好きだったのか」
「もちろん。好きでもない女を抱くかよ」
「……」
「あ。失敬」
ちっ! 癪にさわるヤツだ。
「おい。俺だって好きじゃない女とは寝ないぜ」
「お前の好きじゃない=めんどうくさい女…だろ」
「俺の話はほっとけ。続けろよ」
他人の色恋に興味津々の匡介に苦笑し、
「それだけだ。ぜんぶ話した」
と、士朗は両手の指を開いてみせた。
「なんで別れたんだ」
「彼女が異動になったからさ。俺より半年先に地球へ帰った。その後、風の便りで故郷の幼馴染と結婚したと聞いた」
「ふうん」
カウンターを掴みながら大きく足を組み直し、匡介は顎を掻いた。
「その。ショック…とか、なかったのか」
「それが、ないんだ。不思議と」
士朗は、すがすがしい表情で酒を口に運んだ。
「彼女には幸せになって欲しいと心から願ってる。もし、彼女がピンチであればいつだって飛んでいきたい。今でも本気で思っているよ。でも、彼女が別れた男にそんなこと求めっこない。そういうひとだ」