帰り道
「話は聞きましたか?」彼は落ち着いた声で尋ねた。
「ええ、でもね、このくらいの年の子なら仕方ないでしょう、私もそんな経験があるわ、それにペットボトル1本でここまでおいでにならなくても。」
彼は落胆と疲労を感じた。今の社会で、これだけ環境と叫ばれている社会で、まだこんなことを言える人がいる。やはりこんなもんなのだ。これを正せる力がないと社会は変わらないんだ。そしてその力は自分にはないのだ。彼はいつもより一層下を見つめて家に帰った。妻はまだ帰っていなかった。
次の日、彼はわざと遅く帰った、仕事のきりは定時に付けられたが、昨日のことがもしかしたら、妻の中学校で広まって、妻が当惑したのではないか、そんなことを考えずにはいられず。彼女と顔を合わせるのを遅らせたかった。
駅近くの数少ない背の高いマンションその一つに彼と奥さんは住んでいた。帰り道を歩きながら遠くからでも自分の部屋の光を確認できるので、妻が当然帰っている時間なのに、その事実に自分の帰り歩く足が鈍くなるのを感じた。
「聞いたよ、高須くんのこと。」
家に帰ると、晩御飯を用意し終わって待っていた妻が言った、今日はおかえりの言葉が無かった。
「うん、そうか。」
「高須くんのお母さんが電話してきたよ。」
何故、こう悪い方へ進むのだろう、自分の唯一正しいと信じる環境問題の持論に限って良い結果が得られないことに,彼は気持ちが沈んできた。
「何か言われた?」
「というより、私の名前を使って変なことしないでよ。注意するのはいいかもしれないけど、学校と生徒の親っていうのは色々複雑だから、変なうわさが立つと問題になるから。あなたのしたことはすべきことだと思うけど、地域の大人みんなが子供を育てるっていうね、昭和のようなの、それはいいと思うんだけど、時代がそこからかけ離れてるから、いきなり親元まで連れて行くっていうのは、過激すぎるかも。」
「ふぅん、分かった。」
分かっていなかった。彼にとって大切なのは、子供の教育ではなくて、自然環境の保護なのである。最も身近な妻にさえそこを理解させられていない、いや、理解させようともしていない。ずっと前に言ったことはある。その時言ったことがあるから、それを無視して話を進めるということは、その優先順位をすでに決めたというふうにこちらに表しているのだ、そう彼は思うようになっていた。そうでないとは分かっている、ただ忘れている、それだけなのかもしれない。自分がここまで環境問題にこだわっている、それを忘れられただけなのだろう。それでも、それについて他人と議論することも疲れてしまった彼はもうわざわざ取り上げることをしなくなっていた。
それから彼はスーパーに寄ると必ず、そのことを思い出すのであった。その度に自分は諦めたんだ、目的語はもうない。全てがそこに当てはまっている。彼がその言葉を心でつぶやくときには毎度、目的語に入る言葉が変わる。環境問題を、仕事を、やりがいを、人生を、子供を、楽しみを、自分を。彼はスーパーに次第に寄りたくなくなってきた。しかし、食べるためには、何か買わなくてはならない。妻だけに買い物を任せるのは大変だし、そんな理由がない。彼女の方が忙しいのだ。
しばらくは高須君という少年も見なかったが、しばらくするとまたスーパーの前で座るようになってきた。彼が通っても何も反応しない。
ある日、また少年が座っているスーパーを後にして、マンションに向かっているとき、前に歩きタバコをしている男がいた。携帯灰皿は持っていないようだ。灰をどぶに落としながら歩いている。嫌な予感が彼の中で渦巻いていた。きっとこの男はタバコをポイ捨てするだろう。そして、私は何も言えずにこの男の跡を付いていく。彼は一度タバコのポイ捨てを注意したことがある。注意した男は何も言わず、ただ彼をにらんで去って行った。その一度きりで、彼は二度と注意したことはなかった。
しかし、さっきスーパーですれ違った少年の顔が思い浮かぶ。自分はあの子に注意したのは、相手が自分より弱い人間であったからできたのだろうか、意義がどうとかの前に、私は相手を選んでいたのだろうか。あのとき、あの少年がこの男であったら私は注意しなかったのだろうか。私は元から環境を掲げる前に、すでにその資格を持っていなかったのではないのだろうか。そう考えると、就職の失敗の全てについて、彼の中で辻褄が合うのであった。
男は吸殻を捨てた。
「ちょっと、駄目ですよ、ポイ捨ては。」
彼の声は震えていた、同時に興奮が彼の全身に広がった。
「おっと、お、いやぁ、悪い。あれ、川瀬酒造さんかい。」
男は佐藤が卸しをしているうちの酒屋の主であった。彼はうかつだったと思った。声を掛けた途端に、もしかしたらと思ったのだが、遅かった。そして、自分が今うかつだったと思ったことを自覚すると、顔が青くなっていった。
「いや、あ、すみません、知らない人かと思いましたよ。」
彼はさらに続く自分の言葉に自分を疑った。何もかもが自分の理想から外れていた。やはり自分は環境問題を語れるような資格はなかったのだ。取引先、ただそれだけで、手のひらを返した。自然を優先しなかった。正しいことはどちらだ、もう何も考えたくなかった。
酒屋の主は何かしら話しかけている。タバコのことなど全く気にしていないようだ。佐藤は話の内容が頭に入らなかった。ただ、環境問題の認識の低さに、社会の低さに、そして自分もそれを支えていることに気付かされた、そのことだけを、ひたすら反芻しながら、早く忘れたがっていた。
家に帰ると妻はまだいなかった。佐藤は酒を飲んだ。自分の働く会社の酒を飲んだ。飲むたびにあの酒屋の顔が目に浮かぶ。忘れるためにさらに飲んだ。
それから彼は酒浸りになった。妻は眉を寄せた。何を言っても聞かない。ほとんどアルコール中毒であった。ある日、配達で運転していた佐藤は事故を起こした。原因は寝不足による不注意であったが、彼の息には夜遅くまで飲んでいた酒が残っていた。酒気帯び運転である。いろいろな手続きをした妻は毎日泣いていた。事が治まると妻は出て行った。年度替りで丁度他の学校に行く申請をしたという。彼は何も言わなかった。酒造の人間が飲酒運転をする、彼は社会的にも追い詰められてしまった。小さな町に噂はすでに広がっていた。彼が出社できるようになると、会社は腫れ物の彼を解雇した。同僚は誰も別れの挨拶をしなかった。彼は机を黙って片付け、黙って出て行った。
「どうしてこんなことになったのだろう」
彼はつぶやく、そんな言葉が彼を中心に周りをぐるぐると回っている、彼はその言葉と一緒にそのぐるぐるの中に閉じ込められている。何もできない、外にでようとすれば、どれかの理由が邪魔をする。もう何もできない。彼は会社からの帰り道を歩いている、歩いているが、歩き止ることができない。やはり何もできない。家に食べるものはないだろう、もうじきスーパーに寄るか、家に帰るかの分かれ道に当たる。しかし、彼にはどうしても、その分かれ道まで生きて歩き続けるとは思えないのだった。