日常と異常の境界
そう、手術室の前で二つの黒いシルエットに、襟首を持たれて本当に絞め殺されそうになった。親戚の人達の泣き声に包まれながら。
本当に、どうしていいのか分からない僕は、福与に助けを求めた。彼女ならどうにかしてくれるかもしれないと。
だが、そんなに都合良く世界はできていない。
福与のいる場所まで全速力で走った。しかしだんだんと暗くなる空の下で、足の筋肉はすぐに鉛を含んだように重くなる。それでも彼女ならば現実を変えることができると思い、悲鳴をあげる筋肉をさらに酷使する。
雲は、今の僕の足と同じようにどっしりとした重い様子で静かに動き、今にも泣きだしそうだ。けれど粒はまだ一つも落ちない。
やっとの思いで坂を途中まで登り、今度は神社へ続く石階段を駆け上がる。
しかし森公園には彼女のカケラの気配がなかった。木々の匂いも感じられない。小動物や虫の息づかい、森の神秘性もなかった。まるで神社全体が、もぬけの殻のようであった。
そういえば僕は、彼女のことを名前と存在理由しか、知らなかったのだ。
気がつけば、昔は御神木とされていた古い大木に、絞め殺しのアコウが発芽していた。まるで福与に寿命が芽生えてしまったかのように、僕は思えた。
僕は鳥居まで戻り、町を見渡した。澱んだ水をいっぱいに溜めこんだような雲が、この町にのしかかるように覆い始めていた。湿って生温かい空気が僕の頬を撫で、目の前にある世界の色彩が、ふっと消えたように感じた。胸が冷たくなる。
同時に、最初の雨粒が逃げ場のない僕を選ぶかのように、ぽつりと目の下を流れた。僕自身の涙のようにも思える。いや、もしかしたら本当に涙だったかもしれない。しかしそれはすぐに分からなくなった。水が落ち、どんどん増殖し、地面も空と同じ色に染まっていったからだ。
ボクハドウスレバヨカッタノダ。
今日の雨は、なかなか止むことを知らないで、ずっと降り続くのだろう。
どうして僕は、いつもこうなのだろう。誰も幸せになど、できないのか。
それからの日々の一つひとつは、まるでプールのようなレールはない大海原を、溺れないよう泳ぎ抜くことだけで、精一杯だった。そのようななかで、僕は村瀬と交わした大切な何かを失った。
……なんだ、結局、不幸をばらまいているだけじゃないか。幸福だと思えることは、福与と一緒にいるときにさえ、ないじゃないか。それどころか福与にも迷惑をかけて、失望させてしまった。
どうして僕はこんな大事なことを忘れていたのだろう。東京へ引っ越したのも、この現実から逃れるためだったのかもしれない。そして忘れてはならないことを綺麗さっぱり忘れてしまった僕は、なんて残酷な人間なのだろう。
「ごめんね。あなたの呪いは強すぎて喰いきれない。この町の人々の憎悪が、全てあなたに集約されていて手に負えない。ごめんね」と、僕にとっての真実の天使は謝罪する。
僕と繋がりが強い者は、強いだけ僕を忘れさせることができないという。つまり家族や親戚はもちろん、僕への怒りが強い者も、僕を忘れて幸せになることはできない。
福与が苦しむのも、僕のせいであろう。彼女を長いながいいっときのなかで、完全に忘れていたのだから。
その間、彼女は死の気配に脅えていたのだ。この町の住人の意思で改築された神社と、開かれてしまった森の傷跡で苦しんでいた。
僕達二人は、住民の意思の境界線で、この町から隔離されている気がする。
いつのまにか雨が降ってきた。福与が濡れる。彼女の着物もぐっしょりと濡れている。
僕の唇にできた牙の痕からは、深紅の水滴がぽたぽたと落ち、地に着く前に雨水に吸い込まれるようにして溶けていった。
福与は夜空を見上げて言う。
「私は夜が好き。暗闇じゃないと、星々の海が観えない。季節ごとの夜空の物語が、語られることがない。だから、雨は嫌い」
そして僕の方へむいて続けた。
……ねぇ。まるで私達は、自分達の運命に反逆されている、神様と悪魔の遣(つか)いみたいだね。
僕は、自分の首筋に当たる彼女の息吹に、死の気配を感じた。同時に、冬を連想させるような指が、僕の唇を優しくなぞった。瞬間、理解した。町が死ぬまで僕達は死ねないが、町が滅びれば僕達も別の世界へ移される。
降り出してきた雨は、僕の心の芯にまで染み込んでくる。胸の奥は冷たさに痛がり、身も心も全てがふるえた。まるで僕達の人生の結論が『お前達のための幸せなど、この世のどこにもありはしないのだ』と、不治の病を宣告しているようだ。
「そうだね」
再び重ね合わせた唇は、お互い哀しみに満ちていた。そして絶望のなかの愛の祝福は、一つの物語を終わらせるのだ。
僕達は哀しみに暮れ、濡れていく。お互いの世界だけを視ていく。世界を覆う蜘蛛の糸を持てない理不尽な責めを、町の人達からの妄執を、永遠とともに二人で背負っていくのだ。この、ミニチュアのような町で……。
作品名:日常と異常の境界 作家名:HirokiTouno