少女(アナモルフォーシス)
少女はわたしに抱かれながらも、一心に活字を追っている。わたしは抱いたまま片方の手で、コルクのコースターに置かれたままのタンブラーに、水差しを傾ける。力の込めづらい体勢で、わたし実に慎重に、この水を注ぐ。部屋にはいまこの水だけが音像であり、がページがいま捲られてつぎに、その音がたつ。水差しを置き、替わりに手にしたタンブラーを、自分の鼻先に近づける。わたしは帰路に渇いた喉を、この水で一息で潤してゆく。思わずに漏れた嚥下の吐息。それが少女の首筋を震わすのを感じ取り、強く抱きしめる。ふたたび同じ体勢で、少女の水を注ぎにかかる。注ぎ終え、手にする腕でも抱きつつむと、かのじょはそれを手探りで探りあて、自らのくちをこの水で潤す。わたしは替わりに薬液の瓶を手に取って、その蓋をひねる。蓋を置き手にしたティースプーンを、少女のすぐ目の前で、薬液に浸す。
掬い取った偽薬をくちもとに近づけると、かのじょはなんの躊躇いもなくそれを含み、嚥下する。細い管をくだるケミカルフレグランス。与えられるたびにくちびるを濡らし、嚥下の音を、肌越しに聞かせる。そうではないと知っているのに、わたしの乳首は硬く尖る。少女の背中に圧したまま、肌着に擦れ痛みをのこす。わたしはスプーンを置き薬液の瓶もそこに置く。細いからだを抱きしめなおし、油で束になる黒髪の、はっきりとした頭頂の分け目に、くちびるで触れる。頬を押しつけ、頭皮の匂いを確かめる。今夜はからだを清めさせよう。浅く張った湯にかのじょを浸からせ、わたしは少女の傍らに腰掛け、この髪をやさしく丁寧に、洗ってゆこう。そのとき浴室には水の音が、こそばゆい反響をつづけている。わたしは古い歌を鼻歌にするだろう。どうしても顔についてしまう温かい泡を、指の背でそっと、払いながら。
気がつくと少女は、活字の列の一端を指さしている。その横顔を覗き込めば、かのじょは問いた気の眉になっている。ねえ、この言葉はどういう意味なの?わたしはくちびるだけを鳴らすキスをその頬に、そしてその指に手を重ねこう答える。それはワイゾウ、ワイゾウって読むの。これを見て、とわたしは促し、そして少女が飲み終えたばかりのタンブラーからそのゆびをほどき、少しだけ得意気に、それでいてやさしく諭すように。ほら、コップの底を透かして外を見てごらん、こんなふうに見えるものをね、歪像という、ことがあるの。
けれど焦点である窓外の遠景は、タンブラーの底におさまって、歪んではいなかった。むしろ歪像となり取り囲むのは、ふたりが暮らすこの部屋の方だった。窓辺へむかう部屋の四辺、そしてその一方に掛けられた黒猫の描かれる一枚の絵画、キャビネットで光りを砕くガリレオ式温度計、ソファーに背凭れるラガティアン人形も、すべてがガラスの曲面に引き伸ばされ、歪んだ次元のなかにある。少女は力を失ってゆくわたしの手を、その手で支える。どこか水晶クラスターのように見える、都市の中心部を覗き込もうとする。傾くとその縁から、わずかに残った水滴がつたいこぼれてゆく。胸元がドレスのようになったかのじょのパジャマに、その繊維に、色を深めながら水は、ゆっくりと染み込んでゆく。わたしは少女の濡れてゆく胸元を、気がつくと自分の感触として、感じていた。見えている窓外の空のずっと上の方では、これよりもっとたくさんの水が、さざなみに表面を荒らされてしまい、曖昧になってゆくのだった。するといろんなことが書き変わってしまう。けれど日が沈み夜がきたならば、わたしはきっとこの寝台で、からだを丸める少女を胸に抱きながら、いつまでもそこで眠りをまつのだろう。少女はわたしに抱かれながら、下腹部の中心に痼りのようなものを感じていて、尿意に震え、わたしが眠りにつくことを、いつまでもただ願い続けるのだろう。それが遠く深い記憶としてきっと、わたしの心に刻まれてゆくのだろう。いまとなっては深く、わたしはそのときのことを回想することができる。満月の露光が静かにただよい、青暗くなった、月の引力が聞こえるほどの、ふたりの部屋を。
<了>
2010/04/04
sai sakakai
作品名:少女(アナモルフォーシス) 作家名:さかきさい