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少女(アナモルフォーシス)

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 忘れられた古いクレーターに湛えられる淡水の鏡面に、都市の町並みが映っている。風がながれ、さざなみがたつとその像は揺らいでしまうけれど、逆さまになった町並みはやがて、必ずやそこに再生される。水面に、映っている方の都市だけに、わたしと少女の生活がある。鏡面が揺らぐたび、細部は描き変えられてしまうのだけれど、わたしと少女の生活だけは、いつまでもそこで続いてゆく。

 都市をめぐる鉄道の高架駅。プラットホームを後にしたわたしは、人々のながれに従って、石段を踏んで地上へと降りる。パンプスの靴音が石の壁面に反響する。雑踏に響く数々の靴音が、それぞれの移動を意味づけている。顔のない雑踏に人々は擦れ違う。この都市を照らすためだけにあるような、地球よりもずっと小さな、空のなかにだけある球体の太陽が、わたしの長い黒髪を、背中の上で温めている。
 ターミナルの大きな陰から、冷ややかな、ステンレス色に輝いた、日向へはいる。輪敷きされた石畳を踏んでアパートメントへと向かう帰路に、オープンカフェから風に舞った紙ナプキンが、ガス灯の柱に貼りついて止まった。犬を連れて着飾った婦人が、午後の陽射しのなかなのに、マネキンのように動かずにいる。わたしの視点が歩きながらゆっくりと回り込む。見えてきたその笑顔も、その笑顔を、動かない。
 わたしはやがて発色の良い蝋細工のディスプレイを横目にしながら、レストランが軒を連ねている通りをゆく。人の流れを分けながら進むが、人々の顔はわからない。外国映画に吹き込まれる、国語のような喧騒がずっと、石の町並みに反響している。わたしは人をかわしベーカリーの店先にたつ。ゆびをさして思いおもいに個数を告げ、軽い貧血の眩暈のなかたち眩むと、セカンドバックを覗き込む。店主の言ってくる額で支払いを済ませる。受け取った紙袋を胸もとによせて、音のたたぬよう、やさしく抱く。
 そこからいくつかの路地を入り込むと、人のながれはまばらになる。わたしの石を打つパンプスの靴音が、ひときわつぶさになってゆく。距離感のない子供たちの声が、石の記憶の奥底へと、沈んでゆく。保温されていた袋のなかの惣菜パンが、乳房にぼんやりとした温もりを浸透しはじめる。抱いている手の平はその甲で冷たくて、そんなふうに近づく風が、わたしの髪を背から浮かせる、向かい風になっている。
 つぎに曲がった路地の先に、アパートメントが見えてくる。石柱をかわし、段を踏んで屋内に入り、素通りの狭いエントランスを歩いてゆくと、正面には大きな姿見がある。少し明るい野外の光彩を背景にして、わたしの姿が近づいてゆき、また近づいてくる。靴音は硬質にしたたかにここでも、つぶさに反響をこだまさせる。隙のないスーツ姿のわたしはそこで、鏡像と目尻の目配せを交わしあい、そしてこの角を曲がり、正面にあらわれる古いエレベーターの、格子を横にスライドさせる。
 各階を告げる単発のベルを鳴らしてゆきながら、真鍮細工のレトログラードが、半弧の円盤を刻んでゆく。ぼんやりと見ているときわたしはずっと、部屋に残したままでいる、少女ことを思い浮かべる。かのじょはいまあの寝台でなにをしているだろうか。わたしの帰宅をあの部屋でまつ、艶やかな長い黒髪の、色白で華奢な少女。力なく薄いあのからだ。窪んでときに繊細に震える、大きな目。パジャマの袖から覗いている、手首の甲の外側の突起が、窓外の輝きに影をまわりこませているあの様子。ページの上に伏せられる小さな手。ゆっくりと横向き、わたしを見あげてゆきながら、あの声で発声する、その声。
 どれだけ記憶を書き変えられても、少女を産んだのがこのわたしでないということだけは、はっきりと確信している。わたしは母になってはいない。けれどかのじょが他人でないことも、わたしには疑いのない事実である。抱き上げて聞く耳もとの息づかい。瞳を覗いたときに一致する、光彩のゆらめき。食事を分け合ったときに残る唾液の味。わたしをまるで母のように慕い、完全に信頼した、からだの預けかた。息をのみ、少女の吐息を首筋に感じたような一瞬のあと、目当ての階である12の位置で、レトログラードの針が残像を終わらせた。
 人気のない真っ直ぐな廊下に踏み出したわたしは、間隔をもつ明かり取りの乱反射に照らされてゆきながら、記憶のように曖昧で淡い影をひくわたしの脚を交差させる、ゆっくりとした進行をただ、映像で見ている。自室のまえで立ち止まると、セカンドバックから取り出した大きな鍵を、鋳造の鍵受けに刺し込んで回した。重く硬質な音をたてて施錠が解かれる。冷たくこわいドアノブを引くならばそこには、少女とわたしの生活がある。わたしは後ろ手に鍵をひねると、チェーンの内鍵を摘み上げ、その溝に滑らせる。少女ならばこの内鍵は、背伸びをすれば届く高さだ。けれど一日の大半を寝台で過ごすかのじょのために、一人のときにこの鍵は掛けない。
 どこか青い花弁をもつ花を思わせるその声で、少女がまだ見えていない、わたしに向けて発声する。きょうはずいぶん早かったのね。滑舌も良く大人びた、読書で覚えたその言葉で。わたしはそれに、ええ、と応える。仕事の期限がずっと先に延びたの。替わりに割って入るようなものもないから、今週はずっと早く帰れるわ。言いながらのわたしは、リビングであり寝室でもある、その部屋に入る。簡素で縦長の部屋はむこう一面が窓外であり、そこにはどこか水晶クラスターを思わせる都市の中心部が、遠景としてだけある。部屋の中央をなかばに横切って、少女とわたしの寝台がある。窓外の反射光に輪郭を縁取られる、少女はいま上体を起きあがらせていて、シーツやコンフォーターが波打つ陰影のグラデーションに柔らかく包まれながら、読んでいた重装丁の本のページから、わたしへといま顔をむけた。震えるようでいて決然としたその声がこの部屋に染みわたる。ごめんなさい。水、もってきてもらえるかしら?
 わたしは抱いていた紙袋をサイドテーブルに倒れぬように置き据えると、ガラス製の水差しを手に、少女の長い黒髪の、頭頂に手をのせる。薬は飲んだの、とたずねてみる。少女は眼球の黒目をページの方にむけたまま、頭だけを振ってそれに答える。わたしはキッチンにゆき蛇口の水で水差しを満たす。おいしそうな匂い、と言う、かのじょのその声を背後に聞く。シンクの下にある引き出しを引き、なかから飾り気のないティースプーンを一つつかむとその場を後に、バスルームの前の収納からは、無色の薬液がみたされた、ラベルの小瓶を手に取った。わたしは自分の耳にむけ発声するように、食べて良いのよ、と声をあげる。リビングに向かい室内の空気を深く吸うと、手にするものをサイドテーブルにすべて置いて、寝台に腰掛け、ヘッドボードを背にするように、少女のからだを後ろから抱きつつむ。