日赤従軍看護婦のみたもの
母の日記より紹介する。美しく擬装された病院船うらる丸は昭和17年4月30日サイゴン(現ホーチミン)を発ち5月3日シンガポールに到着、翌4日此処を発ち11日ビルマ(現ミャンマー)ラングーンに着いた。
5月11日
いよいよ待ちに待ったラングーンに来た。昨夜埠頭に着いたが宿舎の準備が出来てないというので上陸できなかった。朝鮮から慰安婦の一行も同時に上陸したがどこへ行ったかは知る由もない。埠頭の焼け野原の現状を見ると皇軍の奮戦の跡が覗われる。小雨の中を焼く30分トラックは走ると第106兵站病院遠藤部隊という文字が目の中に飛び込んできた。云々
当時軍隊は病院船といいながら慰安婦のみならず兵員、武器も運んでいたがそんなことは言うはずもなく、それをしったアメリカは病院船であっても攻撃するようになった。その被害だけは国民に知らされ、プロパガンダで鬼畜と思わされたことは言うまでもないであろう。
このご一行様以外にも何度と無く若い女性を運び、大連では降りた場所に人力車が迎えに着ておりそれに乗ると悠々と去って行ったそうだ。それを覚えている母は「何が補償だ、あれは売春婦だ」という。しかしこのビルマでの別の場面では全く番う光景に出くわす。ビルマ、ラングーン勤務になった母はここで伝染病に感染してしまい生死の境をさまよい、入院治療になった。その時同郷で同僚の看護婦が面倒見てくれていたが、彼女の記録にあったのは全くの反対の姿だった。
4月29日 サイゴン
その時タラップを駆け上がった母たちが見たものは、元気な兵士や若い女性だった。
そのとき初めて病院船といいながら輸送船になっていたことに気付く。
あとで分ったことだがその若い女性は「慰安婦」だった
その慰安婦も「船内で兵士に尿をかけられ蔑まれ、侮辱に耐えている姿は哀れであった」 (大久保 手記)
とあり、どのようないきさつでその船に来たかは定かではないが、それは可愛そうな状況だったと思われる。
現代右傾化した人々は昔のことも調べずただマスコミが報道することを自分勝手に解釈し相手が悪いとけなしあう。イラクもアフガンも、リビアも中国も韓国も。それがなぜ起きているかなどお構い無しに自分たちの立場が絶対で相手の言うことは嘘で卑怯と信じ込む。しかし本当か!?
作品名:日赤従軍看護婦のみたもの 作家名:のすひろ