「舞台裏の仲間たち」 74~75
碌山、私の碌山・・・・
貴方が生命をかけて目指していたものは、一体何。
あれほどまでに私の心と愛をほしがった貴方は、
本当は何を求めていたの・・・・
私が何も知らないと思っている、碌山。
モデルのみどりに、あれほどまでに恋焦がれていたくせに。
いつものようにお店に顔を出して、いつものように子供たちと
遊んでくれてなにも変わりにない日常の振りをしていたくせに、
私が身ごもった時に、あなたは私の目を盗んで
浮気をしていたでしょう。
浮気をしている私の夫の愛蔵を、あなたもあれほど憎んでいたくせに、
私が懐妊したとたんに、あなたまで心を動かしてしまった。
男なんか、そんなもの、
あれほど、高い理想を持って彫刻の世界で、愛の造形を
追い求めていたあなたが、美貌とふくよかな肢体をもつ若い女に、
あっというまに夢中になれるなんて、
貴方もただの、世俗の男のひとりだったのかしら。
碌山・・・・あなたも生身の男のひとりと知って、
実は、安心をしている私も居るの。
9人の子供を産んだ女だと言うのに、たかがの小娘に嫉妬を
している私が居るの。
あなたからの愛情をいくら受け止めようとしても、
決して男として、認めることはできない私が居るの。
夫に縛られ、家と仕事に縛られ、子供たちに縛られている限り、
あなたの望みを叶えてあげられない私が居るの。
ひと時とはいえ、別の女性に心をときめかせたことに
安堵をしている私もいるの。
叶えられてこそ夢は本物に変わるのよ、碌山。
あなたと私で、叶えられる夢などは、どこまでいっても
断じてないの・・・・
わたしの全ては、この世に生を受けて産まれてきた9人の子供たち。
心血を注いで育て上げてきた、大切な中村屋と言うこの家業、
あなたをはじめ、サロンに集まって慕ってくれる
大勢の芸術家や、文人たち。
それら以外は、いくら夢に見ても、かなえられない夢なのよ。
いくら慕っても、いくら強く願っても
私たちは、決して交わる事のできない平行線の夢なのよ、碌山。
岡田みどり・・・・
でも、私は一生この女の名前は忘れない。
唯一、碌山の心を、一瞬とはいえ、盗んだこの女の名前は
なにがあっても忘れない。
身の周りの品、貴方の身に着けていたもの、その他のすべてのものを
あの女に残していきたいなどと、たかがモデルに良く言えたわね。
それがあなたの本当の、気持ちだったの、
それがあなたの、本心からの想いだったの、碌山。
あなたが愛したものは生身の身体では無く、深い思いに支えられた、
見返りなどは決して求めない、崇高な精神だけのはずだった。
垢にまみれたありきたりの世俗の愛などは、
あなたが一番嫌う愛欲のはずだった。
モデルのポーズに飽き足らず、妖艶まで売る若い女のどこがいいの。
それとも、あなたもやっぱり口先だけの生身の
男だったのかしら・・・・
哀しいまでに一途だったあなたは、一体どこに消えたの。
たったひとりの妖艶なモデルの出現に、
心まで惑わされたりしていてどうするの。
私の愛した碌山は、永遠に私だけの碌山だったはず。
でもそれも今となれば、こうしてちぎって燃えていく、
一枚の紙切れよりもはかないとしか言いようのない、
なつかしい思い出だ。
燃えて、燃えつきて、灰になる、
あなたの命がもえつきてその肉体が滅びても、あなたの作品は
生き続けるでしょう。
私が見つけ出した安曇野の命は、貴方の作品のなかで
永遠に輝き続けることになるでしょう。
でもね、碌山。
人は生き続けるために、苦悩し続けるものなの。
あなたの愛も、あなたが生きているからこそ
永遠に続くものだった・・・・
亡くなってしまったあなたの後に残るものは・・・・・
はかなさと、むなしさと、永遠につづくかもしれない
深い悲しみばかり。
分かっている、聞こえている、碌山。
この胸に熱い血がたぎっているからこそ、人は悲しみの涙をこぼすの
この熱い心に、強く抱きしめたい人が居るからこそ、
人は心から悩み苦しむの。
思うようにならないこの世の中で、守りたい人や
心から大切にしたい人たちがいるからこそ、人は傷つき、
悩みながら生きていくの。
もう、充分に私の心のうちは知っていたはずなのに、
あなたはいつでも、現実から逃れることばかりを追い求めてきた。
安曇野で初めて出会ったあの時から、あなたは私に
あまりにも不器用に、永遠の愛を誓ったわ。
それは、私も同じ事。
やきもちが妬けるほど、芸術の天分に恵まれたあなたは、
本当に美しかった。
惜しむこともなく、常に努力をし続けることができたあなたは、
誰が見ても、まぶしいほどのきらめく才能を放っていた。
私が見つけた愛の原石は、いつでもわたしの心を
満たしててくれていた。
でもそれは、私たちだけの永遠の秘密なのよ、碌山。
今日もこうして、あなたの親友の一人と、このアトリエを訪ねました。
彼は帰って、今はもうこうして、私はひとりきりです。
あなたの綴った日記帳は、
あなたが彫刻に出あって、彫刻に恋をした全てのいきさつを
みんな知っている。
苦しみ抜いて、悩み抜いて、いくつも挫折を乗り越えた挙句に、
やっと生まれてきたものたちを、作品たちの裏側を、
みんな克明に語っている。
私と出合って恋した時から、ついこの間までの他愛のない会話まで
この日記には、いくつもの思い出として詳細に
書きつづられている・・・・
なぜ焼かなければならないの。
なぜ、葬らなければならないの、碌山。
それが生命が途絶えた者の、定めなの。
生きているからこそ、秘密は守れてその先へ進めるの。
死んだ瞬間から、全てが立ち往生に変わってしまう。
悔しくても、あなたにはこの日記帳を焼くことなどは
できないでしょう。
あなたの最後の頼みごとが、私とのいくつもの思い出がつづられている
この日記帳の焼却でした。
残っていたら、良さんに迷惑をかけるから・・・・
苦しい息の下でも、やはりあなたが最後まで心配をしたのが、
私のことばかり。
もう、充分なまでに迷惑をかけてきたというのに、
最後の最後になって、愛された証まで、
燃やしてくださいとあなたは言った。
残酷じゃない碌山、残酷すぎるでしょう、あなた・・・・
愛された女が、この火と一緒にまた一人消えていくのよ。
愛された、たったひとつの証が、
こうして煙と共に消えて行ってしまうのよ。
貴方の居る、あの青い彼方に消えて行ってしまうの。
わたしたちの、全てが、
あなたのすべてが・・・・・
作品名:「舞台裏の仲間たち」 74~75 作家名:落合順平