図書室の夢
『春』
図書室には独特の静けさと、時計の針の音だけが広がっていた。時折グラウンド側から聞こえてくる運動部の掛け声が、この神秘的な雰囲気をより一層際立たせているように思えた。
友人からは『図書室の精霊』などと評された僕としては、この雰囲気は小学校の頃から慣れ親しんだものであり、いつまでも飽きない居心地のよさを持っていた。
現在は月曜の放課後。この学校の図書室は規模が小さいため、図書委員会が存在しない。よって今、この高校の図書室にいるのは、司書の松本先生が席を外している今、僕の向かいに座っている友人の月島さん、そして僕だけのようだった。この学校の図書室に通いつめて丁度一年ほど経つが、未だに真向かいの月島さんと僕以外の来館者は一人も見ていない。静かに本を読めると思えば、個人的には好都合とも言えるが、ここまで本を読む人間がいないところを見ると、『活字離れ』というのは想像以上に深刻なのかもしれない。そのうち図書館や図書室がなくなってしまうんじゃないかと思えてくる。
「…………」
僕は読書に疲れて、ふと手元の本から向かいに座っている月島さんの方に視点を上げてみた。
小さな文庫本を読んでいる僕とは対照的に、ハードカバーの洋書の和訳版を机に広げて読んでいる。僕がこっちを向いているのに全く動じない。というか微塵も気がついていない。どうやら目の前の文章以外何も見えていないらしい。髪は適当に短く切りそろえているだけのようだが、インクの様に黒い髪と、無表情ながらも、本の文章を大きな瞳で追う姿はまるで、全く別の世界の光景のようで、図書室の神秘的な雰囲気とはまた違った落ち着いたそれがあった。他人を遠い存在と感じたことは何度もあったが、一年間も同じ場所で顔を合わせていれば、普通、たとえ遠い存在という感覚があってもそのうち慣れるものだ。それほど、彼女は自分と似ているようで全く異質な人間のようだった。
「ふむ」
なんとなく、僕は少し月島さんに話しかけることにした。
「また、洋書読んでるの?」
「はい、まあ」
僕の質問に対して、月島さんは無表情のまま、本から目を離さずに答えた。
「久しぶりに、初心に帰ってシャーロック・ホームズでも読もうかなあ、と。ポアロとネロ・ウルフはあらかた読んでしまいましたし、これを読み終わったらコーデリア・グレイもいいですかね」
「ミステリー好きだっけ?」
「ミステリーも好きなので。ミステリーなら特にアガサ・クリスティが好きですかね。あの叙述トリックに関しては肯定派なので。これは作家ですけど」
こちらに視点を上げずに、ただ黙々と返答していく彼女だが、言葉の端々からは本好きというのがにじみ出ている。僕と彼女はよく読む本の種類が若干違うため、僕にはアガサ・クリスティのやモーリス・ルブランの作品のがどう面白いのかはわからないが、彼女の言葉でそれらが面白いということが、そして彼女がそれらを好きだというのはよく伝わってくる。
「月島さんって、やっぱり本好きだよね」
「本というか洋書が好きですかね。まあ、あなたも大概だと思いますけどね」
「……将来司書になろうかなと思ってさ」
先述の通り、僕は自他共に認めるほど、図書室の雰囲気や本というものが好きだ。家に帰っても本ばかり読んでいる。だから文才がない僕が
、将来も図書に関わり続けることができる仕事を探したら、司書という仕事に行き当たったのだ。だから近頃は、出来るだけ話題の本を読むようにしている。今開いている本も、去年に本屋大賞を獲ったものの文庫版だ。若干行き遅れていることに関しては目を瞑って欲しい。
「……へえ、そうなんですか」
僕の呟きに対して、彼女は初めて視点を上げた。こちらを向いた彼女の顔は、驚きと笑いが入り混じった表情が張り付いていた。……これは、彼女が僕を馬鹿にしていると認識してよいのだろうか。いや間違いない。
「月島さん、馬鹿にしてるよね」
「してないですよ。英語ができなくて、女性が苦手なあなたが、人文学部に行く必要がある上に、女性の方が圧倒的に多数と言われてる司書になろうとするなんて、意外ではありましたが」
「うんいやそれ馬鹿にしてるよね」
司書になるには司書資格が必要な場合が多く、これを取るには基本的に大学の人文学部に行くものだ。だがその人文学部には、ほぼ必ず英語が受験科目として設定されている。そして人文学部には必然的に女性が多い。文学部なのだから本好き以外はいないだろうし、そのほか、不利な面は数多くあれど、有利な面は絶無と言ってよかった。だが流石に本を読めばなれるとは僕も思ってないし、わざわざ言葉を区切って強調しなくてもいいじゃないかと思う。自覚はしているんだから。
「まあ、本気なら応援しますよ。がんばってください」
彼女はといえば、一言そう言って、再び本の世界に戻っていった。読書する彼女はさっきと同じように、文章以外視界に入っていないようだった。最後の言葉は本心なのか、それとも適当なのかはわからなかったが、取り敢えず否定意見を出す気はないようだった。
僕は再び読書に戻ることにして、手元でいつの間にか閉じてしまった文庫本をもう一度開いた。自分でもよくわからないが、月島さんの応援でなんとなく、司書になるという夢へのやる気がより一層が湧いた気がした。
図書室には独特の静けさと、時計の針の音だけが広がっていた。時折グラウンド側から聞こえてくる運動部の掛け声が、この神秘的な雰囲気をより一層際立たせているように思えた。
友人からは『図書室の精霊』などと評された僕としては、この雰囲気は小学校の頃から慣れ親しんだものであり、いつまでも飽きない居心地のよさを持っていた。
現在は月曜の放課後。この学校の図書室は規模が小さいため、図書委員会が存在しない。よって今、この高校の図書室にいるのは、司書の松本先生が席を外している今、僕の向かいに座っている友人の月島さん、そして僕だけのようだった。この学校の図書室に通いつめて丁度一年ほど経つが、未だに真向かいの月島さんと僕以外の来館者は一人も見ていない。静かに本を読めると思えば、個人的には好都合とも言えるが、ここまで本を読む人間がいないところを見ると、『活字離れ』というのは想像以上に深刻なのかもしれない。そのうち図書館や図書室がなくなってしまうんじゃないかと思えてくる。
「…………」
僕は読書に疲れて、ふと手元の本から向かいに座っている月島さんの方に視点を上げてみた。
小さな文庫本を読んでいる僕とは対照的に、ハードカバーの洋書の和訳版を机に広げて読んでいる。僕がこっちを向いているのに全く動じない。というか微塵も気がついていない。どうやら目の前の文章以外何も見えていないらしい。髪は適当に短く切りそろえているだけのようだが、インクの様に黒い髪と、無表情ながらも、本の文章を大きな瞳で追う姿はまるで、全く別の世界の光景のようで、図書室の神秘的な雰囲気とはまた違った落ち着いたそれがあった。他人を遠い存在と感じたことは何度もあったが、一年間も同じ場所で顔を合わせていれば、普通、たとえ遠い存在という感覚があってもそのうち慣れるものだ。それほど、彼女は自分と似ているようで全く異質な人間のようだった。
「ふむ」
なんとなく、僕は少し月島さんに話しかけることにした。
「また、洋書読んでるの?」
「はい、まあ」
僕の質問に対して、月島さんは無表情のまま、本から目を離さずに答えた。
「久しぶりに、初心に帰ってシャーロック・ホームズでも読もうかなあ、と。ポアロとネロ・ウルフはあらかた読んでしまいましたし、これを読み終わったらコーデリア・グレイもいいですかね」
「ミステリー好きだっけ?」
「ミステリーも好きなので。ミステリーなら特にアガサ・クリスティが好きですかね。あの叙述トリックに関しては肯定派なので。これは作家ですけど」
こちらに視点を上げずに、ただ黙々と返答していく彼女だが、言葉の端々からは本好きというのがにじみ出ている。僕と彼女はよく読む本の種類が若干違うため、僕にはアガサ・クリスティのやモーリス・ルブランの作品のがどう面白いのかはわからないが、彼女の言葉でそれらが面白いということが、そして彼女がそれらを好きだというのはよく伝わってくる。
「月島さんって、やっぱり本好きだよね」
「本というか洋書が好きですかね。まあ、あなたも大概だと思いますけどね」
「……将来司書になろうかなと思ってさ」
先述の通り、僕は自他共に認めるほど、図書室の雰囲気や本というものが好きだ。家に帰っても本ばかり読んでいる。だから文才がない僕が
、将来も図書に関わり続けることができる仕事を探したら、司書という仕事に行き当たったのだ。だから近頃は、出来るだけ話題の本を読むようにしている。今開いている本も、去年に本屋大賞を獲ったものの文庫版だ。若干行き遅れていることに関しては目を瞑って欲しい。
「……へえ、そうなんですか」
僕の呟きに対して、彼女は初めて視点を上げた。こちらを向いた彼女の顔は、驚きと笑いが入り混じった表情が張り付いていた。……これは、彼女が僕を馬鹿にしていると認識してよいのだろうか。いや間違いない。
「月島さん、馬鹿にしてるよね」
「してないですよ。英語ができなくて、女性が苦手なあなたが、人文学部に行く必要がある上に、女性の方が圧倒的に多数と言われてる司書になろうとするなんて、意外ではありましたが」
「うんいやそれ馬鹿にしてるよね」
司書になるには司書資格が必要な場合が多く、これを取るには基本的に大学の人文学部に行くものだ。だがその人文学部には、ほぼ必ず英語が受験科目として設定されている。そして人文学部には必然的に女性が多い。文学部なのだから本好き以外はいないだろうし、そのほか、不利な面は数多くあれど、有利な面は絶無と言ってよかった。だが流石に本を読めばなれるとは僕も思ってないし、わざわざ言葉を区切って強調しなくてもいいじゃないかと思う。自覚はしているんだから。
「まあ、本気なら応援しますよ。がんばってください」
彼女はといえば、一言そう言って、再び本の世界に戻っていった。読書する彼女はさっきと同じように、文章以外視界に入っていないようだった。最後の言葉は本心なのか、それとも適当なのかはわからなかったが、取り敢えず否定意見を出す気はないようだった。
僕は再び読書に戻ることにして、手元でいつの間にか閉じてしまった文庫本をもう一度開いた。自分でもよくわからないが、月島さんの応援でなんとなく、司書になるという夢へのやる気がより一層が湧いた気がした。