それぞれの死
「君には福祉事務所に行ってもらうよ。生活福祉課、いわゆる生保だ」
内示を受けた北島栄太郎は正直、面食らっていた。今日は三月二十八日、公務員の内示の日だ。帰帆市役所の税務課に勤務していた栄太郎は、総務部長から内示を聞かされた。
「生保って、市役所でも生命保険を取り扱っているんですか?」
「馬鹿だな。市役所で生保と言ったら、生活保護のことなんだよ」
総務部長は笑っていた。どこか厭味のある笑いだ。
「生活保護って、あの三大不人気職場の……」
栄太郎は知っていた。生活保護の業務は今勤務している税務課に並ぶ不人気職場なのだ。他に市民課の市営住宅班も不人気職場として名が知られている。
「不人気職場かどうかは知らん。まあ、宮仕えは我慢が肝心だな。はい、次の倉内さんを呼んで……」
総務部長は一旦、書面に目を落とすと、プイと横を向いてしまった。栄太郎は目の前が真っ暗になる感覚に襲われた。
面接室を出た栄太郎は「はあ」と重いため息をついて、廊下の壁に寄りかかった。
(今の税務課もキツイけど、生活保護はもっとキツイだろうな……)
栄太郎は壁に寄りかかりながら、そんなことを考えていた。引き返す廊下が異様に長く感じられた。
税務課に戻り、同僚の宮内から「どうだった?」と聞かれた栄太郎は、「最悪です。生活保護だそうです」と答えた。
「生保かぁ。生保はここよりキツイぞ。苦情もよくあるらしいし、毎日残業だそうだ」
宮内は同情するように栄太郎の肩にポンと手を置いた。
「ここより大変なんですか?」
「噂じゃ、そうらしい。税務課から生保に行く人事は多いよ。何でも搾り取る方の苦労を経験させておいて、今度は出し惜しみをさせるのが狙いらしい。まあ、お前もツイてないねぇ……」
宮内はそう言うと、給湯室の方へ歩いていった。
「はあ」
栄太郎から出るのは鉛のように重いため息ばかりであった。だがこの時、まだ栄太郎は生活保護の何たるかについて、まだ理解をしていなかった。
栄太郎はその足で市役所の三階にある生活福祉課を覗きにいった。
すると、何やら窓口で騒いでいる男がいる。
「何で今月の保護費は少ねえんだよ!」
その男は大声を出し、窓口のカウンターを拳で叩いていた。
「だから、奥様が入院されたら入院患者日用品費に変更になるって言ったじゃないですか」
窓口対応した男性職員は涼しい顔をして、言った。その言葉は事務的だった。
「女房が入院して何かと入用なんだ。借金もある。何とかならんのか?」
男は職員に詰め寄る。
「なりませんね。国の基準で決まった金額ですから。それに生活保護は借金を返済する制度じゃありません」
職員は眉一つ動かさず、そう言って退けた。
「あんたは俺たちに死ねって言うのか!」
男は更に声を荒げ、ドンとカウンターを叩いた。男の背中が震えている。
「そうは言いませんが、法律で決まっているんです。今月はあの保護費でやってもらうしかありません」
男は逆上した。男は「この野郎!」と怒鳴りながら、デスクに置いてあったペン立てを職員に投げつけたのだ。
「何をするんですか!」
逆上した男はカウンターを乗り越えようと、身を乗り出した。すると、すかさず数人の職員が駆け寄ってきて、男を押し戻した。
「これ以上、騒ぎを起こすと警察を呼びますよ」
男は「畜生!」と喚いて、階段の方へ向かって走って行った。槍玉に挙げられた職員は、少しネクタイを直すと、何事もなかったかのように、自分のデスクへと戻っていった。
栄太郎はそのやり取りを見て、「果たして自分に勤まる仕事だろうか?」と疑問に思った。更にそれ以上に生活保護の業務に畏怖の念を覚えていた。
今年で二十六歳、この帰帆市に勤めて四年になる栄太郎であったが、こんな職場もあるものかと、正直なところ驚いたものである。税務課もそれなりに大変ではあったが、目の前で修羅場を見せられ、かなり不安になった栄太郎であった。
栄太郎の心に影を落としたのは、目の当たりにした光景だけではなかった。栄太郎の父、長太郎もまた湯鶴町という所で生活保護を受けていたのだった。栄太郎は今、母の昭子と暮らしている。それは度重なる長太郎の暴力から逃れるために、この帰帆市へ逃げてきたのだ。今は離婚が成立している長太郎と昭子だが、その道のりは長いものだった。その経過については後ほど詳しく述べよう。
四月一日、正式に辞令を貰った栄太郎は生活福祉課へと赴いた。栄太郎には生活福祉課の空気が限りなく乾いて見えた。皆、デスクに向かい孤独と戦っているような印象を受けたのである。
係長の席に座っている男が栄太郎を手招きした。栄太郎は係長のデスクに向かった。
「私が係長で査察指導員の高橋良雄だ」
「査察……指導員ですか?」
査察指導員の何たるかもわからない栄太郎である。
「まあ、ここの万年係長だ。北島さんだったね。あんたは地区担当員、つまりは生活保護のケースワーカーだ」
「済みません。僕は生活保護の何たるかもよくわかっていないんです」
「それはこれから、みっちりと俺が教えてやるさ。はいこれ」
栄太郎の前に三冊の本が置かれた。
「何ですか、これ?」
「厚生労働省が出している『生活保護手帳』に『別冊問答集』、それに県がまとめた『生活保護の取り扱い実務集』だ。今時、どんな家電でも三冊くらいのマニュアルが付くだろう。実務上、これは必要だからデスクにいつも置いておきなさい」
栄太郎はその三冊を手に取った。ズシリと重かった。
(果たして、これを抱えきれるのかな?)
そんな疑問が栄太郎の心の中に湧いた。だが、高橋係長は席を立つと、栄太郎の背中をポンと叩いた。
「皆、今日から新しくこの生活福祉課に配属された北島栄太郎さんだ」
高橋係長がフロアに響き渡るような、大きな声で課員に栄太郎を紹介した。栄太郎は「北島です。まだ何もわかりませんが、よろしくお願い致します」と出来るだけ大きな声で言い、頭を下げた。課員たちは立ち上がり、栄太郎に軽く頭を下げた。だが、すぐに自分のデスクへと向かうとパソコンや書類に目を落としていった。
「北島さんはまだ主事だから席は一番フロア側……と言いたいところだが、この仕事に初めて就く人は俺の前って決まっているんだ」
高橋係長は笑いながら、自分の前のデスクを指した。
「係長はこの仕事、長いんですか?」
「俺は生保一筋、三十五年だ。まあ、万年係長だし、今更出世はしたくないけどな。そんな俺だから『歩く生活保護手帳』なんて言われているよ。これから、みっちりシゴくから覚悟しておけよ」
「はあ……」
栄太郎はわけもわからず生返事を返すことしかできなかった。
「取り敢えずは、席に着いてケースファイルでも読んでおきたまえ。デスクの引き出しに入っているから……。あんたの担当地区は百日台周辺だ」
栄太郎はデスクの引き出しを開けた。そこにはぎっしりと水色のファイルが詰め込まれていた。栄太郎はそこから一冊のファイルを取り出すと、おもむろに眺めた。
すると、そこには住所や本籍はもちろんのこと、病歴や生育歴などが事細かに記されていたのである。そして、記録には難解な専門用語が羅列してある。
内示を受けた北島栄太郎は正直、面食らっていた。今日は三月二十八日、公務員の内示の日だ。帰帆市役所の税務課に勤務していた栄太郎は、総務部長から内示を聞かされた。
「生保って、市役所でも生命保険を取り扱っているんですか?」
「馬鹿だな。市役所で生保と言ったら、生活保護のことなんだよ」
総務部長は笑っていた。どこか厭味のある笑いだ。
「生活保護って、あの三大不人気職場の……」
栄太郎は知っていた。生活保護の業務は今勤務している税務課に並ぶ不人気職場なのだ。他に市民課の市営住宅班も不人気職場として名が知られている。
「不人気職場かどうかは知らん。まあ、宮仕えは我慢が肝心だな。はい、次の倉内さんを呼んで……」
総務部長は一旦、書面に目を落とすと、プイと横を向いてしまった。栄太郎は目の前が真っ暗になる感覚に襲われた。
面接室を出た栄太郎は「はあ」と重いため息をついて、廊下の壁に寄りかかった。
(今の税務課もキツイけど、生活保護はもっとキツイだろうな……)
栄太郎は壁に寄りかかりながら、そんなことを考えていた。引き返す廊下が異様に長く感じられた。
税務課に戻り、同僚の宮内から「どうだった?」と聞かれた栄太郎は、「最悪です。生活保護だそうです」と答えた。
「生保かぁ。生保はここよりキツイぞ。苦情もよくあるらしいし、毎日残業だそうだ」
宮内は同情するように栄太郎の肩にポンと手を置いた。
「ここより大変なんですか?」
「噂じゃ、そうらしい。税務課から生保に行く人事は多いよ。何でも搾り取る方の苦労を経験させておいて、今度は出し惜しみをさせるのが狙いらしい。まあ、お前もツイてないねぇ……」
宮内はそう言うと、給湯室の方へ歩いていった。
「はあ」
栄太郎から出るのは鉛のように重いため息ばかりであった。だがこの時、まだ栄太郎は生活保護の何たるかについて、まだ理解をしていなかった。
栄太郎はその足で市役所の三階にある生活福祉課を覗きにいった。
すると、何やら窓口で騒いでいる男がいる。
「何で今月の保護費は少ねえんだよ!」
その男は大声を出し、窓口のカウンターを拳で叩いていた。
「だから、奥様が入院されたら入院患者日用品費に変更になるって言ったじゃないですか」
窓口対応した男性職員は涼しい顔をして、言った。その言葉は事務的だった。
「女房が入院して何かと入用なんだ。借金もある。何とかならんのか?」
男は職員に詰め寄る。
「なりませんね。国の基準で決まった金額ですから。それに生活保護は借金を返済する制度じゃありません」
職員は眉一つ動かさず、そう言って退けた。
「あんたは俺たちに死ねって言うのか!」
男は更に声を荒げ、ドンとカウンターを叩いた。男の背中が震えている。
「そうは言いませんが、法律で決まっているんです。今月はあの保護費でやってもらうしかありません」
男は逆上した。男は「この野郎!」と怒鳴りながら、デスクに置いてあったペン立てを職員に投げつけたのだ。
「何をするんですか!」
逆上した男はカウンターを乗り越えようと、身を乗り出した。すると、すかさず数人の職員が駆け寄ってきて、男を押し戻した。
「これ以上、騒ぎを起こすと警察を呼びますよ」
男は「畜生!」と喚いて、階段の方へ向かって走って行った。槍玉に挙げられた職員は、少しネクタイを直すと、何事もなかったかのように、自分のデスクへと戻っていった。
栄太郎はそのやり取りを見て、「果たして自分に勤まる仕事だろうか?」と疑問に思った。更にそれ以上に生活保護の業務に畏怖の念を覚えていた。
今年で二十六歳、この帰帆市に勤めて四年になる栄太郎であったが、こんな職場もあるものかと、正直なところ驚いたものである。税務課もそれなりに大変ではあったが、目の前で修羅場を見せられ、かなり不安になった栄太郎であった。
栄太郎の心に影を落としたのは、目の当たりにした光景だけではなかった。栄太郎の父、長太郎もまた湯鶴町という所で生活保護を受けていたのだった。栄太郎は今、母の昭子と暮らしている。それは度重なる長太郎の暴力から逃れるために、この帰帆市へ逃げてきたのだ。今は離婚が成立している長太郎と昭子だが、その道のりは長いものだった。その経過については後ほど詳しく述べよう。
四月一日、正式に辞令を貰った栄太郎は生活福祉課へと赴いた。栄太郎には生活福祉課の空気が限りなく乾いて見えた。皆、デスクに向かい孤独と戦っているような印象を受けたのである。
係長の席に座っている男が栄太郎を手招きした。栄太郎は係長のデスクに向かった。
「私が係長で査察指導員の高橋良雄だ」
「査察……指導員ですか?」
査察指導員の何たるかもわからない栄太郎である。
「まあ、ここの万年係長だ。北島さんだったね。あんたは地区担当員、つまりは生活保護のケースワーカーだ」
「済みません。僕は生活保護の何たるかもよくわかっていないんです」
「それはこれから、みっちりと俺が教えてやるさ。はいこれ」
栄太郎の前に三冊の本が置かれた。
「何ですか、これ?」
「厚生労働省が出している『生活保護手帳』に『別冊問答集』、それに県がまとめた『生活保護の取り扱い実務集』だ。今時、どんな家電でも三冊くらいのマニュアルが付くだろう。実務上、これは必要だからデスクにいつも置いておきなさい」
栄太郎はその三冊を手に取った。ズシリと重かった。
(果たして、これを抱えきれるのかな?)
そんな疑問が栄太郎の心の中に湧いた。だが、高橋係長は席を立つと、栄太郎の背中をポンと叩いた。
「皆、今日から新しくこの生活福祉課に配属された北島栄太郎さんだ」
高橋係長がフロアに響き渡るような、大きな声で課員に栄太郎を紹介した。栄太郎は「北島です。まだ何もわかりませんが、よろしくお願い致します」と出来るだけ大きな声で言い、頭を下げた。課員たちは立ち上がり、栄太郎に軽く頭を下げた。だが、すぐに自分のデスクへと向かうとパソコンや書類に目を落としていった。
「北島さんはまだ主事だから席は一番フロア側……と言いたいところだが、この仕事に初めて就く人は俺の前って決まっているんだ」
高橋係長は笑いながら、自分の前のデスクを指した。
「係長はこの仕事、長いんですか?」
「俺は生保一筋、三十五年だ。まあ、万年係長だし、今更出世はしたくないけどな。そんな俺だから『歩く生活保護手帳』なんて言われているよ。これから、みっちりシゴくから覚悟しておけよ」
「はあ……」
栄太郎はわけもわからず生返事を返すことしかできなかった。
「取り敢えずは、席に着いてケースファイルでも読んでおきたまえ。デスクの引き出しに入っているから……。あんたの担当地区は百日台周辺だ」
栄太郎はデスクの引き出しを開けた。そこにはぎっしりと水色のファイルが詰め込まれていた。栄太郎はそこから一冊のファイルを取り出すと、おもむろに眺めた。
すると、そこには住所や本籍はもちろんのこと、病歴や生育歴などが事細かに記されていたのである。そして、記録には難解な専門用語が羅列してある。