本の虫
清良はじっとうずくまってその本を見つめていたが、やがてゆっくり立ち上がった。彼が立つそこは、彼の祖父が遺した小さな蔵の中だった。石造りの蔵の中はひんやりとしていて、夏でもどこか肌寒い。今は冬である。清良が吐く息は白い。
彼は持っていた本を、床に積み重ねられている他の古本の上に、無造作に置いた。この蔵に普段出入りするのは、清良ただ一人だ。ここにあるのは、その清良さえ、読まない本ばかりである。この先長い間、これらの本は、ここに置いてある限り、読み手に飢え続けるのだろう。
清良は実家から離れた小さな大学に通っているが、今は冬期休暇中で、例年の慣習どおり、実家に戻ってきていた。彼は、自分の家が、祖父の代には大層裕福だったと聞いている。しかし、現在残っている大きな財産といえば、今や物置と化している、この蔵だけである。清良は小さい頃、悪いことをすると、この蔵に放り込んで閉じ込めるぞ、と、大人たちにおどかされた。だが小さい清良は、ちっとも怖がらなかったのだという。その理由の一つには、この蔵が、家とほんの数メートルしか離れていないため、閉じ込められても家族の気配を感じることができたということがある。そしてもう一つには、彼がこの蔵を愛していたということがあげられよう。幼少時、清良は、時の流れに取り残されたような古い道具や本、どこの国のものかも分からない、不思議な彫刻などが数多く収められている蔵に入るのが、好きだった。大人たちはそういったものには目もくれなかったが、彼にとっては、蔵は大きな宝箱同然だったのである。
彼が五歳の頃、祖父は亡くなった。厳格で知られていた祖父は、孫である清良のことだけは、目に入れても痛くないほど可愛がっていたという。清良の記憶には祖父との思い出は殆ど残っていないが、それでも蔵に収められた数多の物質に染み付いた祖父の匂いは、時折、彼に懐古の情を呼び起こさせるのであった。
清良は一度蔵の中を見渡して、それから蔵を出た。外は既に暮れ始めていて、蔵の後ろから西日が射していた。足元には、うっすらと新雪が積もっており、清良が蔵に入る際に残した足跡を覆い隠していた。清良は何かを考えながら、ジーンズのポケットに両手を入れて、家の敷地内を歩いた。数分もせずに家の玄関までたどり着くと、彼は玄関の上がり口に腰をかけた。靴を脱ぎもせず、両膝に肘を突いて、その手の甲に頭を載せた。家の中からは何の気配も物音もしない。昔ながらの木造家屋を部分的に改修しただけの彼の実家は、人がいないと時々みしみしと鳴る。彼はその音を聞きながら、腕を解いて、ゆっくり上体を床に横たえた。床の冷たさが背骨に沁みる。
彼は頭の中で、昔読んだものと思われる本の一節を思い出していた。しかし、その本の題名を思い出せない。どこで読んだのだったか、いつ読んだのだったか、その一節以外の情報を、どうしても思い出せないのである。彼は、どうしてその一節を思い出したのか、暫く考えを巡らせた。
そうだ、蔵の中でさっき広げていた、あの本だ。
清良はハッとし、目を見開いて天井の木目模様を睨んだ。本の虫に喰い荒らされた文庫本の、色褪せた表紙を思い浮かべて、再度息を呑んだ。
あの本は、昔、祖父が彼に譲ってくれた本だった。まだ幼い清良に、大きくなったら読みなさいと言って、贈ってくれた本だった。体のどこかに染み付いて離れなかった、あの本に対する想い。それが、先ほど蔵の中で、彼にあの本を広げさせたのだ。
清良は、早くあの本を蔵から持ってこようと思った。大好きだった祖父との思い出が、急速に蘇ってくるような気がして、焦燥感に似た感じを覚えた。しかし、身体はなかなか動かない。清良には、何が自分をそこに留めようとしているのか分からなかった。そうして、起き上がろうと思いながら、床にじっとしていた。家がぴしっと鳴るごとに、本の虫が紙を喰い進めているような気がした。そしてその度に、祖父との繋がりが希薄になっていくような気がした。
どこか近所で、子どもがおもちゃのピアノをかき鳴らしている音が聞こえた。遠くの通りで、誰かがけたたましく車のクラクションを鳴らした。サイレンの音が、近付いて、また遠くなっていく。それらが聞こえなくなった頃、誰かが家の外の雪を踏んで、やって来る音が聞こえた。清良はようやく重い身体を起こして、今まさに帰宅したところだと言わんばかりに、靴ひもに手を掛けた。戸が横に滑って、彼の姉が入ってきた。姉は清良と五歳違いで、地元の企業に勤めている。今日は正月休暇を貰い、近所の友人と買い物に出かけていた。
「ただいま。清良も今帰ったの」
姉は赤っぽい色のダウンジャケットを着て、薄いマフラーを首に巻いていた。長めのブーツの底についた雪がみるみる溶けて、玄関のコンクリートに染みをつくっていく。清良は姉の言葉に肯いて、姉が通れるように場所を空けた。
「ありがと」
姉はそのまま廊下へ出て、歩いて行ってしまった。清良はその気配が遠ざかっていくのを背中で感じた。それから、先ほどまで身体中を震わせていた懐かしさが、いつのまにか消えてしまっていることに気付いた。もう、家鳴りは聞こえない。
自分の中にも、確実に虫が潜んでいる、と、清良は思った。
古くなった本を喰い進んでいく、小さな、それでいて俊敏な虫が、自分の思い出と思い出との隙間に巣を作って、住み着いている。思い出の中に生き続けるのでない限り、虫は必ず、その喰い跡を広げていく。
現在というその虫が顎を鳴らす音を聞きながら、彼はゆっくりと靴をぬいだ。