万年筆
だが、やはり寒い。暫く物入れに押し込められていた褞袍(どてら)を羽織った。
身体に温かみが戻っても、どうにも苛立ちが治まらない。
我慢しながらも原稿に向うボクだが、後ろに居るキミが原因だ。
天気の崩れた一昨日から、何となく乾かない洗濯物と溜まっていた洗濯物。
それを部屋の空間に干しているキミ。
まるでアジアンインテリアの天井布のようなバスタオルとトランクス。
ありったけのハンガーに吊るした服。
こうしてみると、キミの衣服など、場所を取らない色彩豊かなアクセサリーのようだ。
いや、感心している場合じゃない。
部屋中に干した洗濯物を嫌っているわけではない。柔軟剤の香りだって気にならない程度の仄かなものだ。憎らしいほど、ボクの生活動線を熟知した場所にそれらはぶら下がり、移動の妨げどころか、森の小道を散歩するかのように左右上部に干し分けてある。
そう。ボクの苛立ちは、キミのその紅潮した頬。誘うかのようなとろんとしたやや潤んだ瞳。
ボクは、さりげなくキミに近づき、抱きしめた。
だがキミの身体は、滑らかな猫の肢体のようにボクの両腕の中から擦り抜けて行った。
振り向きも、いつものように「にゃお」とも啼かない。甘ったるいほどのキミの態度はどうした?もしかして……。まさか……。ボクのことを嫌っているのか?
いや、それならば、ボクの身の回りの事も、此処に居ることさえもするわけないだろう。
ボクだって、キミを見ていないわけじゃない。キミの変化に気付いているさ。
ならば 何故?(あー、だんだん腹まで立ってきた)
ほら、それだ。時々見せる――
顔を真っ赤にするほど、苦しさを我慢しているキミ。咳き込みたいのなら、してごらん。
必要ならば、ボクは、あの角の店まで走って行くよ。
ボクの寛容な態度も限界だ。ボクは、立ち上がるとキミが怯む隙などないくらいに抱きしめ、頬を寄せた。垂れた前髪を口で掃うように額に唇を当てた。
ボクの両腕は、キミを逃がさまいと力を込めた。(もう逃げられないよ。観念しなさい)
「ほら、やっぱり」
「駄目だよ、近づいちゃあ」
「どっちが駄目だよ!無理して誰が喜ぶ!」
「だって…お仕事……」
「ボクの仕事なら、ボクがきちんとするよ。キミに心配されることじゃない!」
(あ、ちょっとキツイかな)
「じゃあ…」
「じゃあなんだ!どうせ『自分のことは自分でする』とでも言い返すのか?」
「……。 ……。 ……。」
キミは、何度も大きく息を吸っては、反論の台詞を溜めるのだが外には漏れ出てこない。
「いつから?」
口を一文字に閉じながら首を横に振るキミにボクの口はなおもキミを責める。
「この前の雪のちらついた日に薄着のままで飛び出して行ったり、そのまま暫く空を眺めて過ごしていたり、無邪気なキミもいいけど考えろよ。まあそれはそれとして、具合が悪いなら言えよ。ボクだってできるんだ。キミに押し付けているわけでもないし、無理して動かれるほうが腹立つんだよ!」(あ、ちょっと言い過ぎたかな)
キミの目が、ボクを見返す。熱で潤んだ瞳は、違う光を放ち、ボクを睨みつける。
初めてじゃないだろうか、キミが、ボクをこんな眼で見るなんて。
ボクのほうが、怯みそうだ。いや、これは喧嘩じゃない。言い聞かせてるだけさ。
喧嘩か……。
まともに喧嘩らしきは、覚えがないけど、原因になることって何だろう?
――約束をすっぽかされた。(したことはあったけど、ないなぁ)
――仕事の資料を失くした。(そのときは、ずっと探し回って見つけてくれたなぁ)
――料理を焦がして食べられなくした。(いや、いつもいいタイミングで出てくるなぁ)
――仕事中に邪魔をする。(気にならないし、仕事の合間の息抜きになるしなぁ)
ボクを妄想の世界からキミの咳が引き戻す。
「だから!ボクは、キミのために何ができるんだい!」
「ん……にゃ……ぉ」
キミの『にゃお』は力なく、ボクの褞袍(どてら)の胸元に埋まるようにしな垂れかかっている。
キミの洗濯で冷えた手も、火照るように温かい。
もう言葉など無用だ。キミのために布団を提供しよう。ボクの着心地の良い服を貸そう。
「ちょっと出てくる。着替えて寝てなさい」
キミの虚ろ瞳をボクは背中に感じながらドアを閉め、あの角の薬局まで走って行った。
白い息がボクの後ろに流れていく。ずっとキミと繋ぐ白線流しのように。
帰り道は、息を整えながら、ゆっくり走った。また、キミが気を遣わないようにと。
戻ると、キミは言った通りにボクのベッドに入っていた。
「はい。体温計」
「あっち向いてて」
ボク以外の誰が見ているというのだろう……あ、誰かが見ていようと見ていなくても恥ずかしいのか(笑) ボクの差し出した体温計を受け取りキミは布団を被った。
ピピッ!
「はい。はい」ボクは、手を差し出した。
仕方なさそうにキミは体温計を取り出す。
「こりゃ重症だな!薬飲んで、ゆっくり眠れば治るよ」
呆れたような笑みを零し、ボクは、布団から覗くキミの頭を撫でると、久し振りにキッチンに立った。白飯に鮭と白菜の簡単なお粥を作った。冷ましながらキミの口に運ぶが、いつも食べさせてくれるキミのようにはいかない。結局、三口目からひとりで食べていた。
薬を飲んで、眠るキミの額にタオルを当てる。
さっきまで火照っていたキミの頬が、少し和らいだ気がする。
(ボクが、熱を貰ってあげられたらいいのにな……)
寝顔のキミをずっと見つめながら、早く笑顔が見られるといいな……と思った。
今夜、ボクは、ペンに持ち替えるのはやめて冷たい氷水に浸したタオルを絞っていよう。
机の上のペンが寂しそうにボクを待っているようだ。
原稿用紙の上に転がっている万年筆。
ただそれだけなのに……。
― 了 ―