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移ろいの中でⅡ 12月12日 廃棄物と金になる農業 追加

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画面越しの親子

今は子供の誕生から始まり、入園入学式、運動会、学芸会とどこでもカメラやスマフォを持って我が子の動画を撮る姿を目にする。機材は小型でも手ぶれ無くインサート機能まで付いて高性能になり、特に運動会など我が子を撮影しようと周りの迷惑省みずグランドに出てきて競技に支障をきたす父兄まで居て現場の教師は困っている状況だ。
 家庭用ビデオ黎明期に私は九州へ友人と初日の出撮影旅行へ出かけもしたし自分の結婚式は招いた同僚が酒も食事も取らずに撮影してくれたものだ。しかし不思議な物でその映像は今見ることも無いし見たいとも思わない。
何より子供の運動会など写真撮影より応援に力が入り運動会の写真も数枚しかないが思い出は一枚の写真があれば自然と沸いてきて子供と話しも弾む。
 
我が子を一所懸命撮影するのも結構だが、実際はその一瞬の共用している時を大切にすれば良いのでは無いかなとビデオ撮影を見るたびに感じる。子供と一緒になり大きな声で応援する事により後に「あの時の運動会ではね」と思い出が蘇ると感じて成らないのだ。
卒業式だって我が子の成長の姿は画面を通してでは無く,その目にしっかりと焼き付けておくべきでは無いだろうか?
だってその録画した映像、時が経ち機材が変わり今度見たい時に見られる保証なんて無いのだから。映像が無くリアルでの感動も無ければいったい家族や子供と何を共有しようと言うのだろうか?

画面越しの恋愛、画面越しの感動? モニター越しの我が子の姿・・・

もう少し『今』という二度と無い瞬間の大切な時を頭と心にしっかりと焼き付ける事の方がビデオ撮影より大切なのでは無いだろうか。
思い出を引き出す引き金は写真一枚あればいいと私は思う。
記録と記憶は違うのだから。