シンクロニシティ
音に気をつけてゆっくりドアを開き、辺りを見回す。目には止まらないが、誰かが階段を一歩一歩、木の階段を軋きしませながら、重く登る気配がある。軋み。それは桜にとって不思議な音であった。なぜなら、桜の生きてきた世界。それはほとんどの建物が特殊プラスティック。木が軋むという、もろく、不安と頼りなさを合わせた音は、桜にとって新鮮であり、桜自身こころが軋む想いになりそうであった。ここはどんな歴史ある館であり、自分のいた世界なのだろうかと。
音を理解した桜は足元に気を付けながら少しずつ階段に近づき、一階から三階をのぞきこむように見上げるが、シャンデリアが見えることと、気配のみで人影は確認できなかった。ふと、階段の裏側に視線をうつした。それは桜が最初に館に入館した際、気配を感じた場所。想像の範囲であった階段の裏側には、地下室への広い引き戸が開いている。
――あの下には何が。
足音を消し、地下に近付く桜。そしてゆっくり階段を降りていく。一定した機械音。漏れてくる光。その雰囲気と控える人物を桜は認識する。想像していたよりも若く見えるその姿と、自宅だからこそくつろげるその落ち着いた雰囲気に、尋ねる名前は自然なものであった。
「あなたは……加藤達哉?」
ベッドではなく、ロッキングチェアに座っている加藤はゆっくりとうなずく。
「君 は……彼 の同僚か な」
「彼!? 刈谷恭介という男の事ですか!?」
「あぁ……君は つい て 来たの か」
「はい……あの……刈谷は……無事ですか?」
「どう だろう。彼は……この世界の つじつま合わせ に される かも な」
「つじつま!? 誰? 鈴村管轄によって?」
「彼はもう 彼では ない……かも しれない。この世のRと された よう だ」
「何をされたの!?」
「鈴村は言った。 この モンストラス世界は モンスターの 世界。モンスターの 能力に より 星が進化して しまった それは 『新天地』とす る『この星』の 脅威。これ 以上 モンス トラス世界 に 死者は 出さないと」
「この星? 新天地?」
この星。桜にとって、この星とは、やはりもうシンギュラリティ世界ではないのかと。そうだとすれば、新天地とはモンストラス世界を意味しているものかと。そして死者を出さないという意味はどれだけ深読みをして聞いてみればよいのかと。そんなことを考えさせられながらも、今、一番気になるのは刈谷の行方であった。
「だがな 人が 死なない と いう世界 は きっと 無理が 出る……その違和感が生じた時 人は レミング と なるだろ う 皮肉にも シンギュラリティ世界を 新天地 と 想像し……」
「先の事はどうでもいいわ! 今は! 恭介の居所を! さっき……階段を上がった? 行かなきゃ!」
不思議な世界観であり、空想めいた加藤との話より刈谷の安否が気になる桜は、独り言を大きく発するように加藤に背中を向け気持ちを言い切り、地下室の階段を登り、さらに一階から軋む階段を駆け登る。
「はぁ! はぁ! どこ!? 三階?」
二階を見渡し気配を感じない事ですぐに三階に走る。そして入館したときから少なからず感じた甘い葉巻の匂いを、今は強く感じる。二階から三階のあいだにある踊り場を振り返れば、その答えはわかるように。
「あ……管轄……恭……いや刈谷はどこですか!?」
そこには桜を待っていたように、階段に座る鈴村がいる。想像通りの匂いの元は、鈴村がくわえる葉巻。それは一階の階段の一段目に転がっていた葉巻と酷似した。
「水谷……来ていたのはすぐわかっていた。景色が変わっていたからな」
「え? もう一度お尋ね致します! 刈谷は……」
景色。不思議な表現をする鈴村。それは何かの比喩なのか。それとも、まだ見ていない窓からみる景色が違うものなのか。その意味を尋ねる間もつくらないほど、今は刈谷の消息が気になる桜でもある。その桜の様子をみれば、刈谷のいう、そばにいたい妻というのは、目の前にいる水谷桜であろうと察しはついた。
「このドアの向こうだ」
礼もなく、鈴村の横を走り、願い、期待し、ドアノブを握る桜。
「だが!! 中に居るのは……はたして刈谷かな」
「どういう事ですか?」
「刈谷のRはこのモンストラス世界に既にいる。お前のRもだ。春日も……これがどれだけおかしな世界かわかるか?」
鈴村の問いにドアを開く事を躊躇ちゅうちょし、聞き耳を立て、問いに答える。
「春日? 私はここに存在してます! 管轄も! なら刈谷も!」
「まあ、一時的には問題ない……ただし春日の本体は既に骸むくろだ」
「あれは! 春日の死骸!?」
「Rがあり、その本体がない。ならシンギュラリティ世界のANYはどう判断する?」
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LIFE YOUR SAFEに入社し、ANYの存在は知れども、自分がANYに関係することなど想像もしていなかった桜。桜からみれば、ANYは優秀な人工知能。その程度であり、その議論に近いことに関わることも興味も薄かった。初めての質問であり、その相手がANYに一番近い存在である鈴村。いったん冷静になった桜は、答えざるを得なかった。
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「Rを消すか……本体を……つくる?」
鈴村にとっては、『わからない』と言われる期待であった。しかし、桜の考えた答えは、桜の想像力と洞察力が期待以上に備わっている能力があると思える答えだった。鈴村は普段から、難しい話は、難しい話を聞ける能力のある者にしか話さない。話す相手が理解できないと思えそうな内容は、ただの自己満足でしかないとも思っていた。それでも、これからドアを開ける桜への覚悟と理解を吹き込みたく、ひとつのたとえを話し始める。
「『シュレーディンガーの猫』の状態だな」
「なんですか? それは」
「簡単に言えば、実験を考え出した学者の名前だ。その実験名は皮肉的に学者同士で使われる」
鈴村は桜との温度差を気にせず、その場が無限な時間の様な面持ちで、ゆっくりと話し出す。
「二人の学者がいた。ある危険な物質がある。それは、時間が経つと、青酸カリと同様の物質へと変化する。一匹の猫と、中が見えない箱がある。その物質と……猫。両方を箱に入れて、一時間経過させる。青酸カリへと変化すれば猫は死ぬ。変化しなければ生きている。物質変化の確率は一時間以内に50%。話を置き換えるなら、物質はシンギュラリティ世界からモンストラス世界への変化。物質変化の確率はANYの判断。青酸カリはお前にとって悪い結果。猫は刈谷。箱は……その部屋だ」
桜が真面目な面持ちで、それほどの時間もかけずに問いに答える。
「その結果は、開かなければわからない!」