Savior 第一部 救世主と魔女Ⅱ
何かが外れる重い音がした。それと同時に左右の扉が軋んだ音を立てて開く。その扉の向こうから、黒い影が飛び出してきた。
リゼは眩暈を押して立ち上がり剣を構えようとした。ティリーも影に向けて魔術を放とうとした。しかし、その直前で二人は動きを止めた。やって来た影は、魔物ではなく人間だったからだ。
瞳を赤く染めたその男は奇声を上げながらリゼに躍りかかった。リゼは床に突き倒されたが、すぐさま起き上がり男を蹴り飛ばす。男は床を転がった後、ふらふらと立ち上がった。
「悪魔憑き? それとも麻薬中毒者? どっちですの?」
「少なくとも悪魔憑きね。・・・悪魔の気配がする」
左の二の腕を押さえてリゼは言った。よく見ると、悪魔憑きの男の手には無骨なナイフが握られている。襲いかかられた時にそれがかすったようだ。
「悪魔!」
焦点が定まってない目で男は喚く。頬はこけ、ナイフを握る手は細いのに、声には憎しみが満ち満ちていた。それだけではない。薄汚れてはいるが、男が纏っているのは間違いなく司祭の服だった。
「悪魔め! 神に歯向かう害獣め! 消えてしまえ!」
その声が合図だったかのように、開いた扉から次々と悪魔憑きたちがやって来た。あるいは麻薬中毒者だろうか。口々に喚き、叫びながら彼らは押し寄せてきた。
「悪魔だ! 殺せ!」「助けてぇ! 怖いよぉ!」「あはははっ。あはははは!」「神よ! 何故私を助けてくれないのですかぁ!」「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」
殺到してくる彼らに腕や足を掴まれて、ティリーは完全に動きを封じられた。どこにそんな力があるのかというほど強く掴まれ、伸びきった爪が皮膚に食い込む。
振り払うことはできる。手加減さえしなければ。ただ、この悪魔に取り憑かれた人々に手加減なしに魔術を使うのはかなり心が痛む。麻薬のせいなのか悪魔に取り憑かれているせいなのか、助けてくれと叫んで縋りついてくる女の手を引きはがし、悪魔だと叫んで襲って来る男のナイフを弾き飛ばす。そうしている間に別の悪魔憑きが掴みかかってくるからきりがない。こうなったら遠慮などせず魔術で吹っ飛ばすべきかと思い始めた。その時、
「ラウル。あんた、悪魔祓いの術を見せろと言っていたわね」
そう言ったのはリゼだった。彼女も悪魔憑き達に捕まっていたが、動じた様子はない。その落ち着いた声に、逃げようとしていたラウルが立ち止まって振り向いた。
「お望み通り、見せてあげるわ。悪魔祓いの術を。黙ってそこで見ていなさい」
瞬く間にリゼの周りの空気が変わった。巻き起こる風。凄まじいまでの力が彼女を中心に渦巻いている。
『虚構に棲まうもの。災いもたらすもの。深き淵より生まれし生命を喰らうもの。理侵す汝に我が意志において命ずる』
リゼが使っているのは悪魔祓いの術。彼女が紡ぐ言葉は魔法陣を生み、閃光を躍らせる。それを恐れるように周囲の悪魔憑き達がリゼを掴んでいた手を離し、逃げるように後ずさろうとする。
『彼の者は汝が在るべき座に非ず。彼の魂は汝が喰うべき餌に非ず。
惑うことなく、侵すことなく、汝が在るべき虚空の彼方。我が意志の命ずるままに、疾く去り行きて消え失せよ!』
最後の言葉が響き渡ると同時に、眩い光がリゼの周囲を満たした。満ちていく光。消えていく黒い影。
「これは・・・!」
リゼの周りにいる悪魔憑き達から黒い靄が次々と離れていく。悪魔を祓い滅する光は、悪魔祓い師の白ではなく、プリズムを帯びた陽光の如き色。
初めて見る光景。でも聞いたことがある。知ってる。
「リゼ・・・貴女・・・」
ようやく目にした“救世主”の力を前に、ティリーはただ呆然と立ち尽くした。
少し前、アルベルトは病院に向かって夜明け前のメリエ・リドスを走っていた。
「ラウルが密売人で病院に麻薬を隠していたということですか?」
「そういうことだ」
ゴールトンは走りながら首肯する。
「で、あいつに協力してた貿易商を捕まえるためにあんたたちに囮になってもらったという訳だ」
彼の話によると、麻薬の原料を密輸していた貿易商はラウルの目を盗んで密輸品の一部をあの東倉庫に保管していたらしい。ラウルに売るより直接売り捌いた方が高く売れると思ったのだろう。どうにかして司祭の服まで手にいれ、疑いの目をそらせるよう部下には市長の命令だと言っていたようだ。さらには、麻薬を守るために番人を用意してようだが、倉庫に向かわせるのが遅くなったため、アルベルトが一人で戦う羽目になったようだ。
「では、ロドニー審査官が関わっているのというのも嘘なんですか?」
「いや、関わってるだろうよ。司祭の聖衣はそうホイホイ買えるもんでも盗めるもんでもないだろう? そもそも密売人は司祭だ」
ゴールトンの言葉にアルベルトは失望が広がるのを感じた。やはり審査官が関わっていることは否定されなかった。勿論、本当かどうかの確証もない訳だが、しかし――
走っているうちに、東の地平線から太陽が少しだけ顔を出し、一条の光がメリエ・リドスを照らしていく。そんな時だった。向かう先、メリエ・リドス病院から突如光が立ち上ったのだ。その光は東から射す暁光の中で鮮やかに輝いている。
「あれは何だ?」
立ち上る光を見て、ゴールトンは不思議そうに呟く。しかしアルベルトは一目見ただけでその光の正体が分かった。
「悪魔祓いだ」
神聖であるが故に冷たいものではなく、静かでありながら荒々しく力強い光。陽光のような光。それがどんどん広がって、病院の地下のあたりに蟠っていた黒い影を消していく。それだけでなく、病院の上空を漂っていた影さえもその光で滅ぼしていった。
「悪魔祓い? じゃああれが救世主の力というやつか?」
隣でゴールトンが感心したように呟く。ゴールトンの部下たちも同じように驚いている。しかし、あの術の凄まじさはおそらく彼らが考えている以上だ。悪魔祓い師からしてみれば、あんなことは有り得ないのだ。
しかし、今はそれを見ている場合ではない。アルベルトは再び走り出すと、病院の敷地内に入った。
魔術の光で悪魔を滅ぼしていくと周囲の悪魔憑き達がある者は倒れ、ある者はその場に座り込んで静かになった。麻薬中毒者は正気に返ったわけではないが、悪魔が離れたことで一時的に落ち着いている。
大規模な悪魔祓いを行ったせいか、少しだけ視界が歪む。だがそれは一瞬のこと。めまいを振り払い、倒れる人々をかき分けて立ち尽くすラウルへ向かって走った。
呆然とした様子のラウルは、リゼが近付いて来るのを見て我に返ったらしい。すぐ近くの扉を開くと、隣の部屋へ逃げて行く。しかし、遅い。剣を抜き、逃げて行くラウルに近付いた。が、
ラウルのすぐ前まで来た瞬間、足元に青い魔法陣が出現した。
「なっ!?」
一拍おいて、魔法陣から水の魔術が巻き上がる。とっさに右に転がって避けたが、避けた先にも魔法陣が現れた。今度は発動した直後、水流を凍らせて防いだが、間髪入れず正面の壁にも魔法陣が発生し、水流が襲って来る。避けるには間に合わない距離。しかし、リゼが何か行動を起こす前に目の前に現れた半透明の防壁が水流を弾き返した。
「地雷ですわ。あらかじめ床や壁に魔法陣を描いておいたみたいですわね」
作品名:Savior 第一部 救世主と魔女Ⅱ 作家名:紫苑