月の依る辺に
一,新月(有無)
だから、いやなんだ。
なにがいやって、このいつもの症状。
寝てるはずなのに意識はしっかりしてるし、なにより手足の感覚もある。
まぁ、当たり前か。
なんせこれは俺がいるべき本来の世界―
いつもの“夢”の中なんだから―
コケコッコ~!コケコッコ~!
なんだ、このアホみたいな鳴き声は。
…あぁ、俺の目覚まし時計か。そういやなんか鶏みたいな形のを、優陽のやつが買ってきてたな。
あれ使わないと怒るんだよな、あいつ。
とりあえず、うっさいから黙らせておくか。
…左手が麻痺してる、どうやらずっと窓の方を向いて寝てたらしい。
ゆっくりと布団の中から満足に動く右手だけを出し、頭の上にある棚を探っていく。
なかなか見つからない。というより、音が頭の上じゃなく背中のほうからしてる気がするぞ、これ。
肩を軸にして、腕を90度時計回しにぶんっ、とまわす。
見事に空振り。そこには何もない。そのまま床をペタペタと探るがまた同じ。
…もしかして、いや、もしかしなくてもさっきから背中に、被ってる布団にぶっ刺すような遠慮ない視線を感じる。
あれか。あいつは仁王立ちで俺の痴態を見つめているのか、勝手にいらいらしながら。
寝返りのふりをして180度回転、勝手に部屋に入った敵の方へ向く。布団とシーツの境界線から外の様子を伺おうとするのと同時に、敵の容赦ない一撃が、顔面にヒットした。
がきんっ!
「~~……――!!!」
ちょ、ちょっとまて…!がきんっ、てお前……!!
唸りながら、正体を明かす怪盗のように布団を蹴り上げる。
果たして、そこには予想通り、いかにも不満そうに眉間に皺を寄せ、鳴き続ける鶏を力一杯握った、敵もとい妹が立っていた―
「―お前、その鶏で殴ったろ、しかも嘴の部分をおもっくそ俺目掛けて。」
頭に手を当てながら、仁王立ちする相手を睨む。
その視線を、さらりとかわすように、髪を掻き上げ、
「殴ってないよ。ただもう少し耳の近くに持って行ってあげようかなぁ、としただけ。よぉ~く聞こえるようにね。」
と、澄ましながら言った。
なるほど、確かに嘴を頭に突っ込みゃ、よぉ~く響くよな。頭に。
おかげで二つの意味で頭が割れそうだ。
「ほら、ぼうっとしてないでよ。新学期そうそう遅刻するつもり?
兄さんが起きないと片付かないんだから!」
さっさと起きたぁ、と急かしながら目覚まし時計を元の位置に戻す。
まったくせわしない妹だ。
そんなことを思いながら、俺は起きることにした。
今日は四月八日。
新学期の最初の日だ。
俺は今年で高校三年になる。妹の優陽は二つ下だから、今年高校に入学したばかりだ。
俺らが通う高校は、家から徒歩で五、六分ほどの距離で、この街で一番高い丘の上に悠然と聳えている。
朝っぱらから上り坂はきついが、なんとかふんばり校門につく。黒い制服を纏った生徒達が吸い寄せられるように、校門の中に入って行った。
新学期初日は、大抵どこの学校でもやることは同じだろう。
机につっぷしてりゃ、放課後までオートで時間を潰せる。
まったく、今日は来る意味がないよな。
なんせ登校初日は、授業がない。午前中に学校が終わるため、昼過ぎには家に帰れるのだ。
そんなこんなで連絡事項伝達は終わり、やることのない俺はさっさと家に帰ることにした。
教室の扉をくぐり、廊下へ出る。他のクラスも終わったばかりで、廊下一杯に生徒達が溢れている。
さっさと一階に降りて昇降口を目指していると、
がしっ。
…何か襟を掴まれた。
恐る恐る後ろを振り返ると、怪談よろしく保健室から手が。
こう、にょきっと。
よく見ると、その奥で保健室の主である鳴澤さんが不敵に笑っている。
…その笑顔、ちょっと怖いよ。
しかし昇降口はすぐそこ。俺は昇降口という解放への入り口目指し、少しその場で抵抗してみる。
簡単に拉致られる気はない。
「暴れないで。ちょっと入って、用がありますから。」
そういって俺を、有無を言わせず中に引き込む5本の指。笑いながら。
あっさり敗れる俺の踏ん張り。心に浮かぶは敗北の2文字。
そして遠ざかる俺の自由。
そんな俺が引き込まれるのと同時に、後ろを誰かが出て行き―
―反射的に振り返った。
だが、そこにはすでに、喧噪しかなかった。
「最近はどうです?調子の方は。」
鳴澤先生はにぱっ、と笑いながらお茶を差し出してきた。
なんでこんな悪意のない奇麗な笑顔ができるのか、不思議極まりないが、
「いたって快調ですけど。なんです、いきなり。」
俺は出されたお茶を飲みながら、普通に答える。
笑顔の秘訣はまた今度訊くとしよう。
「そうですか。それじゃあ、“眼”の方の調子は?」
と、嫌なことを微笑みながらさらっと訊いてきた。
…その顔は卑怯だろ。返答を拒否させないんだから。
「快調ですよ、嫌になるくらい。でも、ここのところは勝手に視えることは減ってきました。自分で意識しなければ、いたって正常ですよ。」
なるべく、先生を見ないように言う。
そうですか、と言いながら先生は少し離れ、窓の方を向いた。
「…君の目はやはり不思議ですね。何故、君がそうなったのか、興味があります。」
さっきとは違う、妖しい笑い。
「意味も理由もないんじゃないですか?たまたまですよ、きっと。」
意味があるとなると、俺はそれを背負わなくてはいけなくなる。
そんな面倒なことは勘弁だ。
だが、見透かすように、先生はまた微笑み、
「残念だけど、意味や理由がない事象は存在しないと思いますよ、私は。いや、そもそも原因がなければ何も起きないでしょう?
君の中に、その“眼”の原因があり、そして君がそうなった意味もある。ならば、それは偶然ではないでしょう。君でなければ意味がないんですよ、おそらくね。」
と、俺とは裏腹に笑顔で喋る。
だめだ。これ以上ほっとくとまたいつかのように暴走しそうだ、この人。
「で、用ってなんですか?世間話だけなら俺帰りますけど。」
俺は話題を換えることにした。
そうでした、と言うように先生は掌に拳を打ちつけてから、こちらへ向き直り、
「君、さっき何も感じなかった?」
と、唐突に意味のわからない台詞を吐いた。
まるで訳がわからず、変にフリーズしてしまう。
数秒後俺が自然解凍すると、よほど馬鹿な顔をしていたのか、先生が声をあげて腹を抱えていた。
「ごめんね、わからないよね、こんなこと言われても。」
そう俺に謝りながらも、まだ面白いのか、屈みながらひぃひぃ唸っている。
何かすごい腹が立つな、これ。新手の拷問か?
「で、さっきってなんですか。なんのことか説明してください。」
少し語気を強めて話を急かした。
一度深呼吸をしてから、
「ふぅ、ごめん。」
と、目に涙を湛えながら先生は再度謝る。
「それで?」
「うん、さっき君がここに入ってくると同時に出て行った子がいるよね?彼女のことですよ。すれ違ったとき、何か感じなかった?」
おかしなことを言うな。
何か感じなかったか、だと?
そもそもその言い回しが奇妙だろ。何か感じてないとおかしいみたいな口ぶりだ。
大体本当にただすれ違っただけで、俺が振り返ったときにはすでにいなかったから、顔も見てない。
……俺は何で振り返ったんだ?