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オナンの女

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第一章 禁断の扉



 1-1

「ねえ涼くん、オナニーってどういう意味だか知ってる?」

 涼二(りょうじ)はおもわずむせ返した。Bランチを突付くフォークをトレイの上に投げ捨て、冷水の入った安っぽいプラスティックのコップに持ち変える。彼はそれを一気に飲み干した。

「なんだよ珠樹(たまき)さん。突然、何を言い出すのさ」

 昼下がりの大学の学食。その窓際席で二人は遅めのランチを取っていた。二人掛けの小さな白いテーブルが、柔和な春の日差しを照り返す。そこには二十歳前後の痩せた青年と二十代半ばの女性の姿が。対面の女性はティーカップを口にしながら意味深な含み笑いを浮かべている。清楚な薄紫のワンピース。白いシャツにラフなジーンズ姿の涼二とは対照的だ。薄い唇には、ほのかな紅の色が射している。

 狼狽する涼二を尻目に、彼女は言葉を続けた。

「旧約聖書『創世記』の登場人物に、ひとりの青年がいました」

「はぁ?」狐に抓まれた表情の涼二。

 軽く身を乗り出す彼女。涼二の眉間の前に、白魚のような右手の人差し指を付き立てる。まるで講義で使う指示棒のようだなと彼は思った。マロンブラウンのボブへアーがふわりと揺れ、フローラルの香りが涼二の鼻腔をくすぐる。老舗ブランド「ランバン」の「Marry me!」。彼女お気に入りの香水(フレグランス)だ。魅惑の香りを振りまきながら、彼女はそのまま講釈を続けた。

「名前はオナン。彼はユダとカナン人のシュアとの間に産まれた二番目の子息でした。つまり次男ね。兄である長男の名はエル。エルにはタマルという奥さんが居ました。ようするにタマルはオナンの兄嫁という関係なの。学生くん、ここまでは把握できたかな」

「話がよく見えないけど……それで?」続きを促す涼二。

「ある日、兄エルは神の意に反したために処刑されました。父ユダは、自分たちの子孫を残す為に、弟オナンに未亡人タマルと結婚するよう命じました」

 涼二の長い前髪の奥の眉がぴくりと歪む。

「オナンは密かに、兄嫁タマルに想いを寄せていました。そしてタマルも、愛する伴侶を亡くした寂しさからか、少しずつ義理の弟オナンに気持ちが傾いていました。しかし、オナンは兄の身代わりとして彼女と結ばれるのを嫌がります。『彼女を愛している。でも自分は兄を裏切れない。それに自分は兄の代用品ではないんだ』と――」

 芝居がかった口調の彼女。どうリアクションをしていいかわからず、涼二の視線が泳ぐ。

「ねえ、集中してるの学生くん。真面目な話をしてるんだから、ちゃんと人の目を見て聞きなさい」

 まるで子供扱いだ。憂いを帯びた長いまつ毛。その奥のつぶらな瞳で涼二をじっと見つめる。

「悩んだオナンはタマルとの性行為時は全て膣外射精をしました」

 あいかわらずの天然だなと内心毒付きながらも、涼二はおもわず頬を赤らめた。こんな美人の口から「オナニー」「性行為」「膣」「射精」とは。しかも公衆の面前だというのに。隣の女子二人組みが、互いに顔を見合わせ、にやにやとこちらの様子を伺っている。

「でも、この行為が大地を汚す悪行だとされ、オナンは神の手によって殺されてしまいます……」

 自分の語りに感情移入したのか、悲しそうにうつむく彼女。

「男性の自慰行為を表すオナニーの語源は、このオナンの逸話が元になっているのよ。自分の命を呈してまでの亡き兄への誠意。そして兄嫁への純潔の証。ねえ、素敵なお話でしょ?」

 一転、伏せた瞳を上げる珠樹。豊満な胸元で掌を組み合わせながら、じっと涼二を見つめる。

「この逸話、誠一(せいいち)さんに教えてもらったのよ。今度の個展で目玉として出品する新作のモチーフなんですって。表題は『オナンの女』って言うのよ。例によって未完成だから私にも見せてくれないけどね」

 やはり天然だ。人の気持ちなんて何もわかっちゃいない。涼二は心の中で吐き捨てた。

「オナニーなんて下世話なフレイズも、彼が語ると高尚でロマンティックに聴こえるから不思議よね」

 ティファニーの腕時計をちらと覗く彼女。それもきっと「彼」からの贈り物なのだろう。

「もうこんな時間。じゃあ先に行くわね。午後からの有田(ありた)准教授のゼミ、ちゃんと出席するのよ。バイトだなんだと理由を付けてサボっちゃ駄目よ」

「わかってるって」視線を逸らしながら軽く舌打ちをする涼二。「それより悪いね珠樹さん、いつもおごってもらって」

 学食は食券制。二人分の支払いは既に彼女が済ませてある。涼二は胸のポケットからマルボロのソフトケースを取り出し、苦笑いを浮かべた。

「お安い御用よ。でも――そうね、変わりにこれを頂こうかしら」

「あっ」

 涼二のマルボロを素早く取り上げ、両手でくしゃと丸める珠樹。それをそのまま、食事を済ませたトレイの上に放り投げた。

「そんなに痩せちゃって。煙草ばっかり吸ってるから太れないのよ。一人暮らしなんだから、ちゃんと健康管理しなきゃ駄目よ。じゃあ後でね、学生くん」

 足早に立ち去る珠樹。その後姿を大勢の男子たちが羨望の眼差しで追っている。ぽつりと取り残された涼二は、くしゃくしゃのソフトケースからマルボロの残骸を指先で器用に一本つまみ出した。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 「芸術と古都の街」として全国的に名を馳せるK市。その市街地の一角にあるちいさな山際沿いに、次々と増築された洒落た現代建築風の校舎が立ち並ぶ。そこが涼二の通う私立連想美術大学、通称「連美大」の所在地である。

 二十歳の涼二は、そのデザイン学部環境デザイン科の二回生だった。最後尾右の通路側が彼の席。そこで午後の授業の開始を待っていた。卓上の製図板に頬杖を付き、右手の中のスマートフォンの待ち受け画面をぼんやりと見つめている。

「なあ涼二、昼イチから溜息の連発はやめろっつーの。辛気臭いやっちゃなあ」

 左隣の真也(しんや)が、退屈そうに三角スケールを振り回しながら涼二に声を掛ける。前髪の長すぎる地味な黒髪の涼二とは異なり、茶髪で遊び人風のワイルドな風貌だ。

「さっきから思いつめた顔してナニ見てんだよ」

「べ、別に。なんだっていいだろ」

「昼間っからエロサイトか。それとも待ち受け画面をカノジョの写真にでもしてんのかよ。なあ、オマエのカノジョどんな顔してんだよ。ちょっと見せてみよろ」

「……うっさいなあ」

 覗きこもうとする真也を左手で払い除けながら、あわてて右手のスマホをポケットに放り込む涼二。同時に始業のベルが鳴り響く。数秒後、教室のドアが静かに開いた。

 すらりとした肢体の女性が入室する。マロンブラウンのボブへアーに薄紫のワンピース。赤いフレームの眼鏡を掛けた知的な面持ちの美人だ。右手には指示棒、左手には小脇に抱えたテキスト。二十歳前後の彼らより、すこし年上のようだ。気合が入っているのか、しゃんと伸ばした背筋が豊満な胸元を前面に突き出す。

「おおっ」とおもわず口にするクラスメイトの男子たち。瞬時に嘗め回すような視線で教壇の女史を視姦する。その様子が面白くないのか、女子たちは皆、一様に不機嫌な面持ちとなった。

「本日は有田准教授が病欠なので、変わりにTAの私、水原が講義を承ります」
作品名:オナンの女 作家名:紅(kou)