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ほくろ

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 唯愛から離れることを実行したのは、今回が初めてではなかった。前にも一度、夫が会社に行った後、唯愛を無認可保育園に預けたことがあった。
 簡素なビルの二階の二十畳ほどのフロアが、保育園と呼ばれる場所だった。
 小さなこどもたちが縦横無尽に遊んでいた。ひよこ柄のエプロンの保育士が、笑顔を躊躇もなく私に差しだした。
「まあ、なんてかわいい」
 眠っている唯愛を覗き込むその人は、本当に心からそう言っているようだった。私と変わらないくらいの年齢、もしかすると同じ母親なのかもしれない。きびきびとした動きや柔らかい笑顔が、充実とはどういうものかを私に見せつけた。
 差し出された用紙に、私は名前と住所を書き込んだ。預ける理由欄には、就労、就学、通院、介護、冠婚葬祭、リフレッシュと並んでいる。私は一番最後の理由に丸印をつけた。そのときも保育士の柔らかな笑みは変わらなかったけれど、私は屈辱にも似た後ろめたさを感じていた。
 料金は前払いだった。たった二時間分のその金額は、オムツ一カ月分の代金とほぼ同じだった。そして保育士は、二枚目の用紙を差し出し、私にサインを求めた。
 万が一、怪我を負っても、園の責任は一切問いません。
 私はその文字を目で何度もなぞった。サインすることにためらいや恐怖を覚えていては、きっと、これからもずっと、どこにも唯愛を預けることはできない。
 私の耳に、こどもの泣き叫ぶ声が入ってくる。目をあげてフロアを見ると、どうやらおもちゃの取り合いに負けた様子だった。片隅で、女の子が指をくわえて動かない。その真横を、他の子たちが戦闘ごっこをしながら走り回る。足音がフロアにばたばた響く。乳児のベッドに這い上ろうとしている男の子がいる。ぷっくり膨らんだ愛らしい頬、無邪気な好奇心でベッドに足をかけている。
 近くの保育士が気付く。「ゆうせいくん!」
 びくっと身をすくませたその子は、走り去りながら、途中で他の子に躓き、一緒に泣き出した。
 私は表情を変えずに書面に目を落とす。ごく普通の母親と同じように、その用紙にサインする。
「どうぞご安心して、ゆっくりお過ごしください」
 目の前の保育士は本当に感じの良い人だった。何もかも了解しているとでもいう風に、にっこり微笑んだ。あるいはこの人が唯愛を殺すことになるのかもしれない。私はそんなことを思いながら、「よろしくお願いします」と微笑み返し、眠っている唯愛を預けた。
 そして保育士は優しい口調で、何気なくこう言った。
「必ず、二時間後に迎えにいらしてくださいね」
 私が緊張していたせいもある。それでも、一瞬、このまま置き去りにするんじゃないかと疑われたように思った。その思いは、耐えられないくらい私の心を支配した。唯愛が眠っていて、目を覚まさなかったことが、たった唯一の救いだった。
 
 私は朝もやの中を、駅に向かって走った。
 一日だけの休暇だ。何も大げさなことではないはずだ。そう自分を落ち着かせようとするけれど上手くいかない。走らないと、自分の中の迷いに捕まってしまいそうだった。唯愛の穏やかな寝息、夫の弛緩した体、そういったものについて考える隙を与えないように、息が切れるほど速く走る必要があった。
 行くあてもないまま、とにかく電車に乗り込んだ。乱れた呼吸を押し殺しながら、何でもない風にシートに座った。
 かかとをそろえて座席に深く腰掛け、ひざの上にバッグを乗せる。こんなふうにただじっとしていられることが許されるのは、本当に久しぶりのことだった。いつもは唯愛を抱いて、がさごそと動き回る体を押さえながら、やっと体勢を保っているような状態だった。ただ座っていられるということ、それだけでなく、脱力して何でも自由に他のことを考えることができるという、その身軽さを、私は戸惑いながら味わった。
 日曜日だから、通勤らしき人も、学生もいない。静かな車内、シートの端と端にまばらに人が腰かけている。バックパックを背負っている元気なお年寄りグループがいる。これから登山だろうか。雨が降らなければいいけど。丁寧に黒く染められた彼らの髪、重そうな眼鏡の奥はすごく落ち着いて見える。きっと退職して何年も経った人たちなんだろう。幸せですか? と尋ねたら、きっと、ええ、今が一番充実しているわと笑って答えてくれるのだと思う。
 そんなことを考えているうちにも、窓の外は、ぐんぐん私の町を引き離していく。親子連れの小さなこどもや赤ちゃんが乗っていないことが幸いだった。もしも、お弁当が入った重そうなバックを持った家族なんかを見たら、ここにいることをすぐさま後悔したに違いない。
 どうせならもっとヒールの高い靴にすれば良かった。久しぶりのスカートで、最初は落ち着かなかったけれど、だんだんその感覚にも慣れてきた。私はそっと足を組んだ。無性に煙草を吸いたくなっていた。私は窓の外を見る。町の中を走り抜ける、その速度が力強く思えた。確実に、私をどこかに連れていってくれる。でも一体どこに? あと三時間経ってもまだ朝だと言えるくらいだ。この長い一日をどこで潰せばいいのだろう。すでに私は夜中まで帰らないと決め込んでいた。
 本当は、すぐにでも帰ってよかった。でもこうなった以上は帰るわけにはいかなかった。自分へノルマを課すみたいに、そう強く思っていた。今日は夜中まで絶対に帰ることができない。それが私自身への罰になると、心のどこかで信じ込んでいる。
 うつらうつらとし始めた所までは覚えている。アナウンスや、乗降のざわめきは時折耳に届いていたけれど、それらに邪魔されることはなく、私の意識はなだらかに沈んでいった。
 ふと、目を覚ましたのは、強い香水のにおいがしたからだ。三歳くらいの男の子と、若い母親が、私の隣に腰かけた。
 携帯を家に置いて来たから、はっきりとした時間は分からなかった。けれど、アナウンスが知らせる停車駅の名前を聞いて驚いた。ゆうに二時間は経っていることになる。見回すと、バックパックのお年寄りたちはもういない。車内の人の数は増えているけれど、座席はまだまばらに空いている。
 ぶらぶらする男の子の靴が、私のスカートを汚した。男の子は頓着することなく、窓の外をみたり、揺れる吊革を眺めたり、好奇心のかたまりのような目をしている。母親はカールした髪を垂らしていて、表情は伺えない。俯いて、ネイルを施した長い爪で、ピンクの携帯をいじっている。
 男の子は電車の動きに合わせて身体を揺する。小さなスニーカーの靴底が私の足に当たる。スカートに泥がつく。私の中でじわりと感情が湧く。でもそれが一体何なのか、まだよく分からない。苛立ちに似ている。でもそうじゃない。悲しみにも似ている。でも違う。分からない。もっと蹴ってほしい。私はそう思っている。
 男の子の母親が気付いて、小さな声で鋭く言う。
「そうた!」
 男の子は母親の方を向く。
「ちゃんと座りなさい」
 男の子は言われたとおりに座りなおす。母親は表情も変えずにまた携帯に戻る。
作品名:ほくろ 作家名:なーな