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ほくろ

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 靴はまっすぐ床の方を向いて、もう私には当たらない。男の子はちらりと私の顔を見る。一瞬のことだ。そのとき、私は自分の中の感情が何なのかを理解した。私は男の子に伝えたかった。私の気持ちの何もかもを伝えられる、そんな笑顔を浮かべることができたらいいのに。そう思った。
 私は嬉しかったのだ。マナーとか、ルールとか、そんなものはどうでもいい。男の子の目が好きなものを追いかけ、ぶらぶらするその足が何にも遮られずに私に当たり、私のスカートを汚すことが。そういうことの全てが、許されているべきだということ。自由を守られ、愛され、育まれなくてはならないということ。
 その気持ちを自分の中に確かめて、私はもう座っていられなくなった。唯愛のことを思い出さないわけにはいかなかった。重苦しい罪悪感が私を支配していた。俯いてピンクの携帯をいじっている母親は、私と同じだった。子どもの傍にいながら、ここではないどこかを見つめている。子どもの靴底の泥に目が行くばかりで、それよりも重要なことがたくさんあることを、認める意欲を見失っている。そこから逃げ出したい気持ちは、私も同じだった。そして同時に、彼女が男の子をどれだけ愛しているかということが、よく分かった。
 重苦しさが押し寄せてくる。男の子の隣で、私が顔をこわばらせていたのは、内側から湧きあがってくる辛さをこらえていたからだ。次の停車駅にたどり付くと、私はすぐに電車を降りた。私はその子を家に置いて来たのだ。誰よりも美しい私の子、唯愛を。
 ホームを歩いて、そのままベンチに座り込む。乳房が張って痛かった。ブラウスの下では、母乳が勝手に滴っていた。ぽたりぽたりと溢れだす滴を感じながら、貧血のような、めまいが治まるまでしばらくじっとしていた。
 湿った空気が体にまとわりつくようだった。空を見上げると、いつ降り出してもおかしくないくらいの、黒ずんだ雲が空を覆っている。あのお年寄りたちが下山するまでは、どうか降らないでほしい。そんなことを思うのは、たとえ私の身勝手だとしても。
 煙草が吸いたかった。あたりを見回すと、幸い、ホームの一番はしっこに喫煙コーナーがあった。
 パンプスの立てる音を聞きながら、私はそこまで歩いていった。喫煙コーナーがまだ残っている駅は、もうかなり少ない。ここも、あと数年も経たないうちに撤去されるはずだ。
 私は努めて唯愛のことを考えまいとした。少しでも思い出すと、また母乳が勝手に滴り始めるから。
 バッグの中から煙草を取り出し、火をつける。私は煙を深く吸い込んだ。
 煙が肺を掴んで、循環を狂わせる。血液に悪いものが混じっていく。でも、いくら吸っても、うまさを感じることができない。
 煙草を消すと、改札に向かうために階段のある方向へ進んだ。その私の少し前を、ベビーカーを押した母親が歩いている。彼女が階段を前にして一体どうするかなんて、どうして私がそんなものを見なくちゃいけないのだろう。
 辺りを見回したところ、エレベーターは無いようだった。階段の壁の前で母親が立ち止まっている。インターホンがあり、車椅子や手助けの必要がある人は駅員を呼んでくださいと書いてある。彼女は一瞬思案したように思えるが、こどもを乗せたままベビーカーごと抱えて階段をのぼりはじめた。
 無理なことではないのかもしれない。幼いころ、ローラースケートに乗って坂道のスリルを楽しんだこともあるし、学生時代にはバイクを乗り回して遊びもしたし、車で法定速度を越えて運転したこともあった。そのどんなときも、これまですべて、器用にうまくやって来られた。
 同じ線上のできごととして、普通の顔をして、荷物やベビーカーを抱えながら階段をのぼることくらい何でもない。階段を踏み外さないという意思だけで、ここを登り切ることも、十分可能なことなのだ。
 でも、母親の、ベビーカーを抱きかかえる手は骨ばっている。一段一段の歩みは慎重だけど、孤独にさらされているように見えるのは、私だけなのだろうか。危ないからやめなさいと注意することや、こどもが怪我したらどうするの、と責めることなら誰にでもできる。インターホンが無いことなんて日常で、誰の助けもないのが当たり前で、危険を承知で階段をのぼらなくちゃいけないことは、私にとっても普通のことだった。
「手伝います」
 私はそう言って、彼女の歩みを止めた。彼女はものすごく驚いた顔で私を見た。ベビーカーの小さな女の子も同じ顔をして、私を見た。
 とは言っても、階段途中でベビーカーに手を貸すのはかえって危ない気がしたから、私は彼女のバッグを持った。ずしりとした重さが私の肩に加わった。私たちは並んで、慎重に、階段を一段ずつ上った。一言も話さなかった。足元の階段を、ただ真剣にのぼった。
 一番上に辿りついて私がバッグを返すとき、彼女が私の手を握った。今度は私が驚く番だった。
「ありがとうございました」
 彼女はそう言った。
 私たちは微笑みを交わしたけれど、とてもぎこちない表情だった。私も、彼女も、戸惑いを隠さなかった。何でもないことのようにするのは、とても難しかったのだ。
 駅の外は雨が降り出していた。
「降ってきましたね」と彼女が言った。
「大丈夫ですか?」と私は言った。
 すると、彼女はバッグの中からベビーカー用のカッパを取り出して笑った。
「大丈夫。用意は万全にしてきましたから」
 そして言い直すように、もう一度言った。
「本当にありがとう」
 とてもきれいな人だった。ベビーカーの子どもも、その人によく似たかわいい女の子だった。
 駅を出る前に、私はトイレに入った。両方の乳房が、溜まった母乳の為に熱を持っていた。私はブラウスのボタンをひとつひとつ開いていった。
 乳房はがちがちに固くなっており、触れるだけで痛みが走った。
 私は乳房を搾った。熱と痛みに耐えながら母乳を搾り、捨てた。白い液体が水に混じって流れていく。ふと、ここは個室なんだと気付く。誰にも見られないんだということに意識が追い付いたとたん、一気に涙が溢れ出た。声を殺すことだけは最後まで忘れないで、私はそこでひとり、泣きたいだけ泣いた。



作品名:ほくろ 作家名:なーな