ほくろ
3
傘を持たずに出た僕は、降りそうで降らない空を見上げ、一日中、自分の運の強さを測っていた。湿った生温かい空気が、時間を追うごとに密度を増やしていく。雨の予感がだんだんリアルになってくる。
二件目の店を何とか抜け出し、最終列車に間に合うように地下鉄の階段を駆け下りる。発車間際の電車に、僕はぎりぎりで滑り込んだ。アルコールのせいで、激しく動悸がした。
毛穴が一斉に開いて、生暖かい汗が噴き出してくる。冷房の効果を期待して、ひんやりしたドアに体を寄せて息を整える。まったく余計なことをしてくれるものだ、と僕は流れる汗をハンカチで拭いながら思う。環境適応のために進化があるのなら、手や足の水かきがなくなったように、汗だってもう人類には必要のないはずだ。
けれど、と僕はぼんやりする頭で考える。仮に進化の機能が、汗を不必要だと決定するとしよう。その決定が人類全般に反映され、完了するまでには、膨大な時間がかかるだろう。その中で、スマートに進化を遂げるものもいれば、最後までぐずぐず変身できないタイプもきっといる。そして多分、僕は後者に当たるのだろう。僕の体は最後まで、進化を迷って汗をかき続ける。そんな気がする。
あれこれ考えている間にも、汗はどんどん流れ出てくる。いくらアルコールのせいだとしても、冷房の効いた静かな車内では、ちょっと恥ずかしいくらいだった。
列車が動き出してからようやく、ガラスに「弱冷車」のシールが貼られていることに気づく。僕はそのすべてに納得する。まったく、こんな些細な運の悪さは僕の人生では珍しくもない。単なる注意不足と言ってしまえばそれまでだが、この下らなさは一生自分についてまわるだろう。そう思いながら僕は揺れる電車に体を預け、脱力、そのまま目を閉じた。
鍵を回して、音を立てないように注意しながら部屋の中に入る。真っ暗な中、手探りで進むと、唯愛のおもちゃを蹴ってしまい、りんと鈴が鳴る。僕はひやっとして足を止めた。だが隣室の妻も娘も、寝息の乱れた様子はなく、僕は静かに息をつく。
飲んでばかりであまり料理を食べられなかったから、腹が減っていた。シャワーを浴びてからキッチンへ行き、冷蔵庫の扉に手を掛ける。
わっと明かりが、冷蔵庫の中から漏れる。ライトが光るそこは、温度調節まで自動で管理され、僕のいる部屋より数段豪華に見える。その真ん中には堂々と、円盤型のりんごのタルトが鎮座していた。妻がいつもの趣味で作った今日の作品だ。それを片付けるのは、たとえ台本に書かれていなくても、僕の役目だと決まっている。だから、何の迷いもなく僕はそれに手を伸ばした。
ナイフで大きく切り分けて、手づかみでかぶりつく。りんごのしっとりした味わいと、生地のざくざくとした軽さがちょうど良いバランスだった。手作りならではの荒っぽさと素朴さ。素直においしいと感じた。
足を忍ばせて、寝室の襖をあける。ひんやり冷房が効いている。
妻と唯愛は同じ格好で眠っていた。まるで双子みたいだった。僕は背を向けた妻の横に体を伸ばす。静かに眠る妻の背中に、そっと手を触れようかと思い、一瞬迷う。そして同時に思う。妻に対するこの迷い、何だこの躊躇、緊張感。
翌朝、朝食に出されたのも、りんごのタルトだった。
「昨日、帰ってきてから食べたんだ」
「ふうん」
妻の方も、もちろん分かっているだろう。朝食は別のものにしてほしい……、と僕は口に出す前に諦めた。
皿には、九十度を超えたタルトが乗っている。無表情のまま妻は、コップに牛乳を注ぐ。僕はフォークを動かしタルトを頬張った。妻が唯愛を抱いてテーブルの向い側に座る。そして僕が食べる様子をじっと見つめる。貼りつくような視線を浴びていると、また何か起こるのかという不安が押し寄せてくる。
「一緒に食べないか?」
「食べたくないの」
妻は面倒くさそうに答える。僕はタルトに思い切りかぶりついて見せる。口の端に入りきらなかったりんごが、ぽろりと皿に落ちる。妻はその様子にちょっと眉をひそめ、膝を合わせ直すような素振りをして斜めを向いた。
僕はりんごを指でつまみ、口の中に放り込む。頭の中で引き算しながら、残りのタルトの分量を測る。あと何日これを食べ続けることになるのだろう。妻に抱かれた唯愛が僕の皿に手を伸ばして、蟹のようにじたばたもがいている。
「唯愛、食べるか?」
僕が小さなかけらを娘の口に入れてやろうとすると、
「やめてっ」
と激しい勢いで妻がフォークを払いのけた。タルトがテーブルの上に散らばる。僕もとうとう我慢できなくなった。
「何するんだ」
語気を強めた僕から、妻は視線をそらせる。
「唯愛ちゃんにはまだ早いの。アレルギーとか、いろいろあるのよ。どうせあなたには何にも分からないでしょうけど」
唯愛がタルトの破片に手を伸ばそうとしている。それを見つけた妻は、唯愛をあやしながらくるりと後ろを向いてしまった。掴みどころのない思いが込み上げて来る。僕は一気に牛乳を飲み干す。空になったコップをテーブルに置くと、妻が急に振り返った。そして、さっきとは打って変わった輝きのある目をして、僕にこう言った。
「ほら、ここ見て。顔に湿疹ができたの」
妻はテーブルに身を乗り出し、顔を横に向けて左の頬を僕に見せた。僕は口の周りについた牛乳を拭きながら「ああ、本当」と頷いた。
「唯愛ちゃんにも同じものができたのよ。ほら、見て」
妻は娘に横を向かせ、頬の一部を指差した。
「ね、まったく同じところでしょう。不思議じゃない?」
「唯愛のは、あせもじゃないのか」
「あせも? 顔になんかできないわよ」
「俺はこどもの頃、よくできたよ。鼻とかさ」
「ここは頬よ」
いい加減、苛立ってきた。
「一体何なんだよ、さっきから。ひどくなるなら病院にでも行ったらいいだろう」
すると妻の顔は表情を失ったように、静かになった。ガラスのような眼で、テーブルを見下ろしている。
「最近おかしくないか? 嫌なことでもあるのか?」
「別に」
僕はそれ以上聞くのをやめた。一生を一緒に暮らす相手と言えども、人の中身まで全部は分かりはしない。僕は残りのタルトをかき込むと、会社に遅れる、と言って急いで家を出た。
家に帰りたくなかった。けれどこんな日だからこそ家に帰らなければならなかった。それはよく分かっているつもりだった。
いつもよりも早く仕事が片付いていたが、書類をあれこれいじりながら、ずるずると退社の時間を伸ばしていた。電車を降りてからも、何となく自宅に向かって歩き出す気になれず、二四時間営業の本屋に入った。雑誌を立ち読みしていたら、携帯が鳴った。妻からだ、と確認しながら時計を見る。もうすぐ十時になる所だった。
「ごはん。いるの、いらないの?」
「あ、ごめん。食べるよ。もうすぐ帰るから」
「今どこにいるの?」
「駅前の本屋だけど」
妻が無言になる。「何?」と僕は尋ねた。