雪の華~Wintwer Memories終章【聖夜の誓い】
「春に生まれるのなら、私たちのところより、少し後になるのね」
どうやら、ケーキが焼き上がったようだ。有喜菜はオーブンから湯気の立つシフォンケーキを取り出した。
「そうだな」
直輝は話を止め、出来上がったばかりのケーキを見つめている。
「そんな大きなケーキ、どうするんだ? 俺たちだけじゃ、食べきれないだろ」
「私たちのじゃないわよ、眞歩(まゆむ)ちゃんに届けるのよ」
「眞歩に?」
「昨日、紗英から電話があったの。私たちが選んで送ったバースデープレゼント、あの子が物凄く歓んでくれたって」
「そう、か。眞歩が歓んだのか」
直輝の顔にホッとしたような表情が一瞬浮かんで消えた。一ヶ月前の日曜日、近くのデパートの玩具売り場に行き、別れた妻の育てている娘に誕生日のプレゼントを送ってきた。もちろん、眞歩を生んだ有喜菜も一緒に行った。
そう、彼の最初の娘は、前の妻ではなく、今の妻を代理母として生まれてきた。前妻紗英子は子宮を摘出してしまい、子どもを望めなくなった。そのために、代理出産という究極の道を選択し、結果として眞歩を授かったが、夫婦は別れることになってしまった。
あれから二年。有喜菜と再婚した直輝は、今年の六月、ついに今の妻との間に、待望の我が子を得たことを知った。まもなく有喜菜が出産する。
「眞歩ちゃん、お人形と着せ替えセットを物凄く歓んだみたい」
「それは良かった。女の子の歓びそうなものはよく判らんから、お前がいてくれて助かったよ」
今度、生まれてくるのは男の子だと判っている。たとえ離れて暮らしていても、紗英子の許で育っている眞歩もまた我が子に間違いはないのだ。娘と息子を授かった自分は、つくづく幸せ者だと思う。
紗英子が代理出産という道を選ばなければ、眞歩を授かることもなかった。あのときは代理出産に反対した直輝だが、今は少し考え方が違ってきている。
依然として、他人の子宮を借りてまでの出産には懐疑的ではあるものの、紗英子の勇気と決断が彼の大切な娘をこの世に誕生させたことを思えば、一概に否定ばかりもできないのだ。
「紗英もシングルマザーとして頑張っているみたいよ」
別れた妻の紗英子は今、化粧品の販売員をしていると聞いた。結婚以来、ずっと専業主婦だった三十七歳の女が突然、一人で生きていかなければならなくなった。
直輝が離婚を決意したことで、紗英子は安定した暮らしを失った。直輝は離婚後、眞歩の養育費だけでなく月々の生活費も渡すと申し出たのだが、生活費の方は断られた。
―私のことまで心配する必要はないのよ。あなたには、これから、あなた自身の生活がある。あなたが眞歩のことを忘れずにいてくれるだけで、私は十分だから。
眞歩が生まれた病院で別れて以来、紗英子にも眞歩にも逢ったことはない。しかし、眞歩の一歳の誕生日に有喜菜と連名でプレゼントを送ってから、有喜菜の許には紗英子から時折、連絡が来るようになったようだ。
逆に、有喜菜が紗英子に連絡をすることもあるらしい。直輝は結局のところ、紗英子を棄て有喜菜を選んだ。言わば、紗英子にとって、直輝と有喜菜は顔も見たくないほど嫌悪して良い相手だ。しかも、三人はかつての幼なじみという関係だった。
普通なら、多分、絶縁状態になるだろうのに、奇跡的に紗英子と有喜菜の絆が細々と繋がっているのは、他ならぬ眞歩の存在があるからだろう。
眞歩がお腹にいた頃は、あまり愛情を感じなかったらしい有喜菜だが、今はそうでもないらしい。やはり、自分の血を引いていなくても、十月十日、胎内で育み生命を賭けて生み出したあの娘を愛おしいと思うようになった。そんなようなことをある日、直輝に告げたことがある。
自分たちもついに我が子を得たが、その前にも有喜菜はよく言っていた。
―無理に子どもを作る必要はないの。私には眞歩ちゃんがいるから良いわ。
そのひとことが何より有喜菜の眞歩への気持ちを物語っていはしないか。
有喜菜の言葉どおり、不妊治療もせずに自然に任せていたら、予期せず自然妊娠したのである。
紗英子も社会復帰した直後は大変だったようだが、今は眞歩を保育園に預けて、仕事もそれなりに順調にいっているようだ。勝手な言い分かもしれないが、紗英子には幸せでいて欲しかった。
間違っても、嫌いになって別れたのではない。紗英子の考え方、物の見方が自分とはあまりにかけ離れていることに気づき、これ以上は一緒にやっていけないと思ったのが理由だったのだ。
「紗英、ボーイフレンドができたらしいわよ」
直輝は眼を瞠った。
「そうなのか?」
「勤務先の取引会社の人だって。今は営業部長だけど、社長の甥で専務の息子だっていうから次期社長は間違いないみたい。プロポーズされてるという話だったわ」
「そっか」
直輝は半ばホッとしたような半ば空しいような、妙な心もちで有喜菜の話を聞いていた。
だが、それで良いのだ。自分には有喜菜との間に子どもが生まれ、紗英子もまた新しい伴侶を見つけて新たな幸せを得る。
「眞歩のことは、どうするんだろうな」
バツイチなのはともかく、子連れ再婚になることを相手が承知しているのだろうかと気になる。場合によっては、眞歩を引き取っても良いとは思うが、恐らく紗英子は承知しないだろう。
直輝との離婚を覚悟してまで、代理出産を選択して得た我が子なのだ。紗英子にとって、眞歩は生命にも等しい。
「もちろん、相手の人も眞歩ちゃんのことは承知だって。紗英の身体のことも何もかも承知の上で、結婚したいって言われたそうよ」
相手の男は紗英子より二つ下の三十七歳で初婚だという。
「そうか、よほど紗英子に惚れてるんだな」
直輝は呟き、有喜菜と視線を合わせた。
それで良い。それぞれの道を進みながら、皆が幸せになれれば良いのだ。
「眞歩は、いつか俺に逢ってくれるだろうか」
こんな父親でも、我が娘は〝父〟だと認めてくれるだろうか。生まれたばかりの娘と紗英子を棄て、有喜菜を選んだ自分を。思わず心の呟きが落ちた。
「紗英なら、眞歩ちゃんをあなたに逢わせないなんて絶対に言わないわ。それに」
と、有喜菜は直輝に微笑みかけた。
「たとえ何があろうと、眞歩ちゃんは、あなたの娘なのよ。それを忘れないで」
たとえ有喜菜の子宮を借りて生まれてきたとしても、眞歩が紛れもない紗英子の娘であるように、眞歩は同じく直輝を父として生まれてきたのだ。その事実は変えようがない。
「ああ、そうだな」
直輝には話さないでと口止めされているが、有喜菜は、紗英子から彼女の気持ちを聞いていた。眞歩が二十歳になったその時、代理出産のことも含めて、すべての事情を話すつもりだ、と。そして、眞歩と直輝を対面させても良いとも紗英子は言っていた。
まだ二歳になったばかりの眞歩が成人するまで、十八年。気の遠くなるような年月がある。だが、きっと眞歩は母から聞いた話を受け容れてくれるに違いない。直輝と紗英子の娘なら、紗英子の大切に育てる娘なら。
有喜菜は夫の視線に気づいた。直輝が穏やかに笑っている。有喜菜も自然に頬を緩めた。
「また降ってきたようだな」
作品名:雪の華~Wintwer Memories終章【聖夜の誓い】 作家名:東 めぐみ