雪の華~Wintwer Memories終章【聖夜の誓い】
LessonⅤ キャッツ・アイにて~孤独なピアノ~
聡が輝を連れていったのは意外な場所だった。聡は公園を抜けると、隣のあの雑居ビルに入った。
昨日と同じようにエレベーターに乗り、今度は三階で降りる。輝が不安げなのを見たのか、聡は笑った。
「心配はしなくて良い。別に変なところに連れていくわけじゃないから」
「聡さんを信頼してるから、大丈夫」
本当にそう思ったのだが、聡は強がりだと思ったようである。小さく含み笑い、三階の突き当たりの部屋に入った。
ガチャガチャと鍵を開ける騒がしい音が静寂に響く。
聡に続いて輝が脚を踏み入れると同時に、灯りがついた。ふいに照らし出された光景に、呼吸をするのも忘れてしまったほど愕く。
天井で煌めくシャンデリア、店の中央で存在感を主張するグランドピアノ。
更に室内を見回して、輝は眼を瞠った。室内はかなりの広さで、奥手にはガラスのテーブル席とソファが二つ、更にピアノの右手側にはカウンター席があった。その背後の棚には様々な種類の洋酒瓶と磨き抜かれたワイングラスが並んでいる。
グラスはよく手入れされており、繊細なシャンデリアの光を受けて煌めいている。
「ここは?」
まるで狐に化かされている気分で訊ねると、聡が笑った。
「俺の店」
実に単純明快な応えである。
「これが聡さんの夢なのね」
その科白は彼にとっても意外だったようだ。
「俺の、夢?」
「だって、聡さんがそう話してくれたでしょ。絶対に叶えたかった夢だったのよね」
「あ、ああ」
聡はつられたように頷き、茫然と―まるで自分も初めて見るように店内を見回した。
「素敵だわ。大通りから外れた路地沿いに、こんな洒落たお店があるなんて、誰が想像するかしら」
輝は瞳を輝かせ、スカートの両端をつまんで、優雅にお辞儀してみせた。それから、くるくるとその場で舞う。
「不思議ね。ここにいると、自分が醜いアヒルの子ではなくて、華麗に変身したシンデレラになった気分よ。多分、ここを訪れたお客さんは皆、似たような気持ちを持つのではないかしら。普段、自分が心の中に大切にしまってある夢を叶えてくれる場所。言い方がふさわしいかどうかは判らないけれど、そういう雰囲気というか魅力がここにはある」
「夢を叶えてくれる場所」
聡はまだ茫然とした様子で、輝の言葉をなぞった。
輝はなおも踊る真似をしていたが、やがて、ハッと現実に返り頬を赤らめた。
「ごめんなさい。私ってば、何を一人で勝手なことばかり喋っているのかしらね」
三十一歳の世慣れた女が取るには、あまりにもみっともないふるまいだ。そう思うと、恥ずかしさに居たたまれなくなった。聡はさぞ呆れているのではないか。
短い沈黙が流れた。やっぱり、聡さんは私のこと、呆れてしまったんだわ。
輝の心が絶望と落胆に染まりかけた時、聡が唐突に言った。
「輝さん、そんなことを言った人は君が初めてだよ。この店を俺の夢だと言い、ここを訪れる人が心の中に大切にしまってある夢を叶える場所だなんて。そんな風に考えたこともなかったし、教えてくれた人もいなかったんだ」
こっちにと手を引かれ、輝は聡に誘導されるままに歩いた。聡は店の中央にあるグランドピアノの前に輝を導くと、そっと背を押して椅子に座らせた。
「俺も一瞬だけかもしれないが、君の夢を叶えてあげたいんだ。弾いてみて」
「聡さん」
輝はハッとして聡を見上げた。
絡まる視線。彼の瞳の中にある意思をこの時、彼女は明確に理解することができた。
「随分と高級そうなものなのに、私なんかが触っても良いの?」
恐らく時価何千万という単位のピアノではないだろうか。だてに音大のピアノ科を卒業したわけではない。その程度の鑑識眼は持っている。
「もちろん。ピアニストの卵さんに弾いて貰えるんなら、ピアノも本望だと思う」
「判った。それでは、弾かせていただきます」
名器とは、それだけではや一つの存在価値を有している。例えばストラディバリの銘を持つバイオリンなどがその最たる例といえよう。
年月の重みを持ち、その自身の重みがかえってそのものの存在価値を高め、峻厳な山のように誇り高く気高い逸品。それこそが、まさに幾世紀にも渡って語り継がれる名器というものだ。
年月がその人の価値を損なうことなく、かえって深みと魅力を増している―、その点では聡も同じだった。
このピアノがどれだけの歳月を経ているものかまでは判らないが、確かに名器と呼ばれるにふさわしいだけの風格を備えているように見える。まるで凛然とした誇り高い貴婦人のようだ。
大学の担当教授は、プロにはなるのは無理だと言われた。そんな自分がこのようなピアノに触っても良いのかという不安と躊躇いはある。しかし、今夜だけでも夢を叶えてあげたいという聡の好意をもまた無駄にすることはできなかった。
何より、かつてはプロのピアニスト目指した輝の心が、指がそれに触れたいと渇望していた。輝は躊躇いを棄て、心の叫びに忠実に従った。
「弾いてごらん」
その聡のひと声に励まされ、輝は恐る恐る真っ白な鍵盤に触れてみる。ポローン。澄んだ得もいわれぬ響きが人気のない店内にひろがった。
その先は何も必要なかった。輝はただ心の声に彼女の感性に導かれるままに指を動かし、鍵盤の上をしなやかな両手がすべった。
輝がこの夢のような夜のために選んだのは〝歓びの歌〟であった。しっとりとしたバラードも情熱的な曲も良いかもしれない。でも、何より今の自分の心を表しているのは、この曲のように思えたからだ。
弾むようなときめきや、心の浮き立つ様をこの曲に乗せて大好きな男に届けることができれば、どんなにか嬉しいことだろう。
そして、最後に、この素敵な夜を飾る曲は、これしか考えられなかった。〝歓びの歌〟が終わると、今度はスローなバラードになった。
そう、〝雪の華〟。中島美嘉の歌う輝のお気に入りの曲だ。大好きな男に大好きなとっておきの曲を贈る。もちろん輝一人の一方的な思い込みにすぎないが、今年の冬最高の想い出になるだろう。
少し哀切を浴びたバラードがシャンデリア煌めく店内に響き渡る。そのすばらしい旋律の名残はかなり長い間、周囲を漂っているようだった。
二曲目が終わるやいなや、一瞬訪れた静寂を拍手が破った。輝は白い頬を染めて立ち上がる。あたかもピアニストが観客に向かってするように、優雅に腰を折り、一礼した。 いや、今夜、確かに輝はピアニストであり得た。もちろん、観客は聡一人だ。輝はたった一人の観客のために心のすべてを注いで一生に一度の演奏をし、また聡も彼女の演奏に誰よりも真摯に耳を傾けてくれた。
輝の視線が真っすぐに聡を捉えた。たった今、信じられないほど素晴らしい音を紡ぎ出した白い手がまた動き出す。―かと思うと、次の瞬間、聡の整った顔に烈しい驚愕が走った。
「輝さん? 何を」
輝は既にブラックの通勤用のスーツのジャケットを脱いでいる。その下に防寒のために着た紺のカーディガンを脱いでいる彼女を、聡はまるで惚(ほう)けたように茫然と見つめていた。
が、カーディガンも脱ぎ去り、そのしなやかな指が白いブラウスの一番上のボタンにかかった時、鋭い一喝が飛んだ。
聡が輝を連れていったのは意外な場所だった。聡は公園を抜けると、隣のあの雑居ビルに入った。
昨日と同じようにエレベーターに乗り、今度は三階で降りる。輝が不安げなのを見たのか、聡は笑った。
「心配はしなくて良い。別に変なところに連れていくわけじゃないから」
「聡さんを信頼してるから、大丈夫」
本当にそう思ったのだが、聡は強がりだと思ったようである。小さく含み笑い、三階の突き当たりの部屋に入った。
ガチャガチャと鍵を開ける騒がしい音が静寂に響く。
聡に続いて輝が脚を踏み入れると同時に、灯りがついた。ふいに照らし出された光景に、呼吸をするのも忘れてしまったほど愕く。
天井で煌めくシャンデリア、店の中央で存在感を主張するグランドピアノ。
更に室内を見回して、輝は眼を瞠った。室内はかなりの広さで、奥手にはガラスのテーブル席とソファが二つ、更にピアノの右手側にはカウンター席があった。その背後の棚には様々な種類の洋酒瓶と磨き抜かれたワイングラスが並んでいる。
グラスはよく手入れされており、繊細なシャンデリアの光を受けて煌めいている。
「ここは?」
まるで狐に化かされている気分で訊ねると、聡が笑った。
「俺の店」
実に単純明快な応えである。
「これが聡さんの夢なのね」
その科白は彼にとっても意外だったようだ。
「俺の、夢?」
「だって、聡さんがそう話してくれたでしょ。絶対に叶えたかった夢だったのよね」
「あ、ああ」
聡はつられたように頷き、茫然と―まるで自分も初めて見るように店内を見回した。
「素敵だわ。大通りから外れた路地沿いに、こんな洒落たお店があるなんて、誰が想像するかしら」
輝は瞳を輝かせ、スカートの両端をつまんで、優雅にお辞儀してみせた。それから、くるくるとその場で舞う。
「不思議ね。ここにいると、自分が醜いアヒルの子ではなくて、華麗に変身したシンデレラになった気分よ。多分、ここを訪れたお客さんは皆、似たような気持ちを持つのではないかしら。普段、自分が心の中に大切にしまってある夢を叶えてくれる場所。言い方がふさわしいかどうかは判らないけれど、そういう雰囲気というか魅力がここにはある」
「夢を叶えてくれる場所」
聡はまだ茫然とした様子で、輝の言葉をなぞった。
輝はなおも踊る真似をしていたが、やがて、ハッと現実に返り頬を赤らめた。
「ごめんなさい。私ってば、何を一人で勝手なことばかり喋っているのかしらね」
三十一歳の世慣れた女が取るには、あまりにもみっともないふるまいだ。そう思うと、恥ずかしさに居たたまれなくなった。聡はさぞ呆れているのではないか。
短い沈黙が流れた。やっぱり、聡さんは私のこと、呆れてしまったんだわ。
輝の心が絶望と落胆に染まりかけた時、聡が唐突に言った。
「輝さん、そんなことを言った人は君が初めてだよ。この店を俺の夢だと言い、ここを訪れる人が心の中に大切にしまってある夢を叶える場所だなんて。そんな風に考えたこともなかったし、教えてくれた人もいなかったんだ」
こっちにと手を引かれ、輝は聡に誘導されるままに歩いた。聡は店の中央にあるグランドピアノの前に輝を導くと、そっと背を押して椅子に座らせた。
「俺も一瞬だけかもしれないが、君の夢を叶えてあげたいんだ。弾いてみて」
「聡さん」
輝はハッとして聡を見上げた。
絡まる視線。彼の瞳の中にある意思をこの時、彼女は明確に理解することができた。
「随分と高級そうなものなのに、私なんかが触っても良いの?」
恐らく時価何千万という単位のピアノではないだろうか。だてに音大のピアノ科を卒業したわけではない。その程度の鑑識眼は持っている。
「もちろん。ピアニストの卵さんに弾いて貰えるんなら、ピアノも本望だと思う」
「判った。それでは、弾かせていただきます」
名器とは、それだけではや一つの存在価値を有している。例えばストラディバリの銘を持つバイオリンなどがその最たる例といえよう。
年月の重みを持ち、その自身の重みがかえってそのものの存在価値を高め、峻厳な山のように誇り高く気高い逸品。それこそが、まさに幾世紀にも渡って語り継がれる名器というものだ。
年月がその人の価値を損なうことなく、かえって深みと魅力を増している―、その点では聡も同じだった。
このピアノがどれだけの歳月を経ているものかまでは判らないが、確かに名器と呼ばれるにふさわしいだけの風格を備えているように見える。まるで凛然とした誇り高い貴婦人のようだ。
大学の担当教授は、プロにはなるのは無理だと言われた。そんな自分がこのようなピアノに触っても良いのかという不安と躊躇いはある。しかし、今夜だけでも夢を叶えてあげたいという聡の好意をもまた無駄にすることはできなかった。
何より、かつてはプロのピアニスト目指した輝の心が、指がそれに触れたいと渇望していた。輝は躊躇いを棄て、心の叫びに忠実に従った。
「弾いてごらん」
その聡のひと声に励まされ、輝は恐る恐る真っ白な鍵盤に触れてみる。ポローン。澄んだ得もいわれぬ響きが人気のない店内にひろがった。
その先は何も必要なかった。輝はただ心の声に彼女の感性に導かれるままに指を動かし、鍵盤の上をしなやかな両手がすべった。
輝がこの夢のような夜のために選んだのは〝歓びの歌〟であった。しっとりとしたバラードも情熱的な曲も良いかもしれない。でも、何より今の自分の心を表しているのは、この曲のように思えたからだ。
弾むようなときめきや、心の浮き立つ様をこの曲に乗せて大好きな男に届けることができれば、どんなにか嬉しいことだろう。
そして、最後に、この素敵な夜を飾る曲は、これしか考えられなかった。〝歓びの歌〟が終わると、今度はスローなバラードになった。
そう、〝雪の華〟。中島美嘉の歌う輝のお気に入りの曲だ。大好きな男に大好きなとっておきの曲を贈る。もちろん輝一人の一方的な思い込みにすぎないが、今年の冬最高の想い出になるだろう。
少し哀切を浴びたバラードがシャンデリア煌めく店内に響き渡る。そのすばらしい旋律の名残はかなり長い間、周囲を漂っているようだった。
二曲目が終わるやいなや、一瞬訪れた静寂を拍手が破った。輝は白い頬を染めて立ち上がる。あたかもピアニストが観客に向かってするように、優雅に腰を折り、一礼した。 いや、今夜、確かに輝はピアニストであり得た。もちろん、観客は聡一人だ。輝はたった一人の観客のために心のすべてを注いで一生に一度の演奏をし、また聡も彼女の演奏に誰よりも真摯に耳を傾けてくれた。
輝の視線が真っすぐに聡を捉えた。たった今、信じられないほど素晴らしい音を紡ぎ出した白い手がまた動き出す。―かと思うと、次の瞬間、聡の整った顔に烈しい驚愕が走った。
「輝さん? 何を」
輝は既にブラックの通勤用のスーツのジャケットを脱いでいる。その下に防寒のために着た紺のカーディガンを脱いでいる彼女を、聡はまるで惚(ほう)けたように茫然と見つめていた。
が、カーディガンも脱ぎ去り、そのしなやかな指が白いブラウスの一番上のボタンにかかった時、鋭い一喝が飛んだ。
作品名:雪の華~Wintwer Memories終章【聖夜の誓い】 作家名:東 めぐみ