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雪の華~Wintwer Memories~Ⅱ

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 いまだに輝の涙の理由が判らないらしい吉瀬は、心底弱り果てたように謝り続けている。
 輝は涙をぬぐい、やっとのことで言った。
「違うんです」
「え?」
 吉瀬が眼を見開く。
「私、あまりにも嬉しくて。それで、つい泣いてしまいました。私の方こそ、ご迷惑だったでしょうに、ごめんなさい」
「じゃあ、何か気に障ったというわけでは」
「もちろんです! そんなこと、あるはずがありません」
 いささか力みすぎた物言いに輝がうす紅くなると、吉瀬は笑った。
「いや、それをお聞きして安心しました」
「生まれて初めてのウェディングドレスを着ただけで、かなりテンション上がったし、その上、こんなに綺麗にして頂いて―。もう、本当に何と言ったら良いか判らないくらい幸せで嬉しくて、気がついたら勝手に涙が溢れてきて」
 輝がたどたどしく説明していく間に、吉瀬の顔にまた愕きがひろがる。
「女性というのは哀しいときだけでなく、嬉しいときも泣くんですか! この歳になるまで、そんなことは知りもしませんでした」
 真面目な顔で言うので、輝はつい笑ってしまった。
「ああ、やっと笑いましたね。やはり、本間さんは笑った方が素敵です」
 吉瀬は言いながら、また頭に手をやった。
「良い歳をして、呆れたでしょう。こんな歳をして、いまだに女心の一つも解せない朴念仁ですからね。こんなんだから、女房にも逃げられるんですよ」
「えっ」
 輝が素っ頓狂な声を上げたので、吉瀬は眼を丸くしている。
「あ、済みません。大きな声出したりして」
 頬を赤らめた輝に、吉瀬は笑って首を振る。
 輝は失礼を承知でいながら、なお彼に訊ねずにはいられなかった。
「吉瀬さん、独身なんですか?」
 短い沈黙の後、吉瀬は頷いた。
「ええ、今はこれでも一応、花の独身です」
「何で―何で離婚したんですか?」
 刹那、吉瀬の整った面にまた軽い驚愕が走った。輝はもう、穴があったら入りたくなった。
「ごめんなさい。今の質問は聞かなかったことにして下さい。私なんかがそんな立ち入ったことをお聞きできるはずもないのに、失礼しました」
 今度の沈黙は先刻よりも少し長かった。
 恥ずかしさのあまり、真っ赤になっている輝とは裏腹に、吉瀬は落ち着いていた。
「仕事しか頭にない、家庭を全く顧みないヤツだって、いきなり三行半を突きつけられましてね」
「そう、なんですか」
「結構ショックでした。女房がそんなことを考えてるなんて、ちっとも気づきもしないで、脱サラした途端、もう、ついていけないわ、あなたの気まぐれにはこりごりってね」
 そのときだけ、吉瀬の顔が酷く哀しげに歪んだ。
 もしかしたら、吉瀬さんはまだ別れた奥さんを愛しているの? そう思った瞬間、何故かまた胸がツキリと痛む。
「脱サラ―。でも、吉瀬さんは何か本業をなさっていて、その傍らカメラマンもしているって」
 そういう話だったはずだ。サラリーマンではないのだろうか。
 踏み込みすぎる質問だとは判っていた。大体、今日が初対面で、しかも顧客と撮影を依頼したカメラマンという関係にすぎないのに、ここまで私生活に立ち入る権利も資格もないはずだ。
 だが、もう、輝には止められなかった。何故、吉瀬のような誰が見ても魅力的だと思える男を彼の妻が棄てたのか、その理由が知りたかった。
 吉瀬は今度はもう逡巡を見せなかった。
「昔は確かにサラリーマンだったんですよ」
 と、輝でもよく知る大手家電メーカーの名前を挙げた。
「そこで営業部長までいったんですけど、それこそ仕事ひと筋でしたね。だけど、ある日、急にそんな仕事一辺倒の生活に嫌気が差して、辞表を出したんです」
 ややあって、彼は淋しげに笑んだ。
「女房が怒るのも無理はなかった。俺は勤め人だった頃は、仕事しか眼中になくて、それが嫌になって突然、辞めるときも、あいつにひと言の相談もしなかったんです」
 それは確かに吉瀬の妻が怒るのも頷けた。突然、夫が辞表を出して職を失う。辞めさせられたのならともかく、そうでない限り、妻であれば理不尽で責任感のない行為に腹を立てるはずだ。
 その時、吉瀬が輝の気持ちを読んだように言った。
「幸か不幸か子どもはいませんでしたから、それほど生活に困ることはなかったんですよ。退職金も出ますし、貯金も少しはありましたからね。しばらく休んで、次の仕事をしようかくらいに軽く考えていたんです」
「―」
 吉瀬の妻の怒りはもっともだとは思えるが、かといって、吉瀬が永遠に働かないと言い出したわけでもないのに、離婚までする必要があったのだろうか。
「妻が出ていったのは、俺が新しい仕事をすると言い出したときなんですよ」
「え、それはまた何で―」
 また踏み込みすぎる質問をして、吉瀬に呆れられるという心配はある。しかし、それよりも、彼について知りたいという欲求が勝った。 
「俺の夢は脱サラして、喫茶店をやることだったんです。それも、ただの喫茶店ではなくて、夜はバーにもなるような少し洒落た大人の店を開きたかった。でも、嫁さんには、俺のその夢があまりにも馬鹿らしかったみたいでね。四十も近くなって、今更、何をバカな子どもみたいなことを言ってるんだ。もう知らない、これ以上、俺の我が儘にはついてゆく気もないって、出ていきました」
 吉瀬は、やるせなさそうに首を振った。
「サラリーマン時代は私のことなんて少しも顧みようとしてくれず、やっと脱サラして家庭も大切にする気になったのかと思えば、今度はまた自分勝手な夢に向かって走り出す。つくづく愛想が尽きたって言われましてね」
 彼の妻は知っているのだろうか。いまでも別れた妻を〝あいつ〟と呼ぶときの吉瀬の口調がこんなにも切ないものであることを。
 予期せぬ告白と真実に少なからぬ衝撃を受けている輝に、吉瀬は淡々と言う。
「自分の嫁さんが何を考えてるか判らないなんて、ホント、バカな男ですよ、俺は」
 軽い自分への嘲りが潜んでいる言葉に、思わず輝は叫んでいた。
「そんなこと、ありません」
 吉瀬が愕いたように輝を見る。
「私だったら、絶対にそんなことはしません。素敵な夢じゃないですか。それは一から始めるのは大変かもしれませんけど、思い切ったことって、何かの大きな踏ん切りがなければ、できないものですよ」
 ややあって、吉瀬が淋しげに笑った。
「女房がそんな風に考えてくれたら良かったんですがね」
「済みません、私ったら、今日は何を言ってるのかしら」
 輝の白い頬は傍目で見ても判るほど、朱が散っている。それでも、もどかしいと思った。何故、吉瀬の妻は彼の夢を理解してあげられなかったのか。もちろん、店の経営が軌道に乗るとは限らず、始めたは良いが早々に挫折してしまう危険性も大いにあったに違いない。
 だが、吉瀬に言ったように、人生には時に大きな賭をすることも必要なのだ。躊躇ってばりいては何もできないし生まれない。確かに平穏無事な人生は送れるかもしれないが、そんな人生はきっと後から振り返れば、実に味気ないものだろう。
 妻の立場からすれば、夫に人生の大ばくちに出ることを勧められるものではなかろうが、夫が既にその一世一代の賭けに出たのであれば、黙って見守るか、もしくは影ながら協力するべきではないのか。