フェル・アルム刻記
八.
同じ頃、七月三日。北方のクロンの宿り。
大いなる災いはいよいよ現実のものとなろうとしていた。
昨晩、ハーンはスティン山道の手前にある野営地で魔物を倒したものの気を失ってしまった。その後ディエルは旅商達の力を借り、ハーンを連れてクロンの宿りに戻って来ていた。〈緑の浜〉の主人ナスタデンのもとにハーンを連れていったのは、またしても夜が明けきらないうちだった。寝ぼけまなこのナスタデンは、朝早くの来客に文句をたれるどころか、ただ驚きの声を上げるばかりだった。
[ハーン?! どうしちまったんだよ!]
馬上に横たわるハーンを見て、ナスタデンが言った第一声である。
夜が明けて、昼が過ぎ、夕方が近づいてもハーンは目覚めなかった。昼頃にただ一度、何がしかのうめき声を上げたのを除いて。その間中、ディエルはハーンの傍らで様子を窺っていた。
ただしディエルの心にあるのは、いかにして“力”を入手するか、ということと、いかにしてこの世界から一刻も早く抜け出すか、ということ。滅びを迎えようとしている世界の住民に同情している余地など無かった。
どたどたと廊下を歩く音が聞こえ、どんどん、と荒っぽく部屋の扉が叩かれた。
[ハーンは? まだ起きてないのか?]
外から聞こえるナスタデンの声は、どこか焦っているようにも感じられる。
ディエルはとたとたと戸口に近づくと、少しだけ扉を開けた。ナスタデンは扉を開けてハーンに近づくと、彼の肩を持って揺り動かす。
[頼むから起きてくれ、ハーンよ!]
[無理だと思うよ? 何回も試したけど、全然起きないんだ]
ナスタデンはハーンを起こそうと色々試したが、やはりハーンは目覚めなかった。
[こんな時なのに、ハーン! お前の力が必要なのに!]
首を振り、諦めた主人は部屋から出ようとした。
[あんた!]
朗らかな表情を浮かべた夫人がナスタデンと鉢合わせた。
[あんた、大丈夫だよ。“あれ”はゼルマンが倒したって、今ベクトから聞いたんだよ]
[本当か!? ゼルマンが……ならよかった……]
ナスタデンは安堵の溜息をついた
[ほんと、一時はどうなることかと思ったがな……みんな大丈夫なのか?]
[ゼルマンも、肩を怪我したらしいけど大丈夫だってよ]
と夫人。
[で、……ハーンはずうっとお休みのままなのかい?]
[ああ、まだだめだ。よっぽど疲れているのか……とにかく一難は去ったんだ、ハーンは寝かせておこう]
ナスタデンは言った。
[ねえ、一難って……何があったんだよ?]
ディエルが訊く。
[得体の知れない……化けもんがな……あれはもう、化けもんとしか言いようがないが――とにかく熊みたいな化けもんがクロンの外壁に突進してきてよ、衛兵が何人かやられちまった。……あんな恐ろしい目に遭うのはたくさんだ! あんな動物がいるなんて、聞いたこともないぜ!]
[化け物だって?]とディエル。
[でも大丈夫だよ]
夫とディエルをなだめるように、夫人が落ち着いた口調で言った。
[過ぎたことだ。……ディエル、脅かしちまって悪かったね。ハーンのこと、見てやっておくれよ?]
夫人は、未だ激している夫の背中をぽんぽんと叩きながら、部屋を出ていった。
「化けもんねぇ……。まぁ、並のバイラルが倒せるくらいだから、大したやつじゃあないんだろうな」
静かになった部屋の中、ディエルはひとりごちた。
「でも、これからこの世界、さらに荒れてくるんだろうな。それだけは間違いない……」
ディエルの予感はやがて現実のものとなり、フェル・アルム北部を震撼させることとなる。