フェル・アルム刻記
四.
夜も更けて。ハーンが眠りにつこうとした時、叫び声が聞こえてきた。ハーンは何ごとか、と思い、剣を握りしめテントの外に出た。今の叫び声は人間のものではあるが、悲鳴に近いものだった。
[だ、誰かあ……]
うめく声が再び聞こえた。それを聞き、周囲の者達もテントから這い出してきた。
[なんだ? 一体]
[危険だから、下がって!]
言うなりハーンは剣を抜くと、救いを求める声のほうへ、一目散に駆けていった。
ハーンには分かっていた。クロンの衛兵キニーが言うところの『熊』が現れたのだ。
ぶうんっ……
剣が低く唸り、その波動がハーンに伝わってくる。戦いのためにこの剣を抜くのははじめてだが、剣が意志を持つかのように戦いを欲しているのが分かる。ハーンは、まもなく目の当たりにする魔物のほかに、この漆黒剣の誘惑にも打ち克たなければならない。
悲鳴の上がった現場には、得体の知れないものを前にした男が、腰を抜かして座り込んでいた。ハーンは、がちがちと歯を震わせている男の前に立つと、目前の敵を見据えた。
一匹の獣が、しゅうしゅうと不快な息遣いをしながら、赤い目を爛々《らんらん》と輝かせて獲物を屠《ほふ》らんとしている。獣は熊のようにも、大柄な猪のようにも見えるが、その実どちらでもないことがハーンには分かった。形こそ違えど、これと同じ感覚を持つものにハーンは一度出会っているからだ。魔物。フェル・アルムには存在してはならない生物。“混沌”が生み出しし、忌まわしき創造物。
ハーンは直感で知った。今の自分なら――レヒン・ティルルを得た自分なら、この程度の魔物ごとき、苦もなしに倒せるのではないか、と。迷いもなく、ハーンは地面を蹴った。
ハーンが剣を薙ぎ払うのと、牙をむいた魔物が突進するのは同時であった。
うおおおん、と不気味に吼えたのは、魔物か、剣か。
レヒン・ティルルの刃先は、向かってくる魔物の頭部を見事にとらえた。ハーンはそのまま勢いに任せ、魔物の口元から胴体にかけ、一気に切り裂いていく。勝負あった。ハーンは剣を引き抜くと、とどめとばかり、漆黒の刃を振り下ろし、魔物の首をはねとばした。
ずう……ん……
魔物の巨躯が地響きをたてて崩れていく。ハーンは余りにあっけない成り行きに驚きを隠せなかった。
「たったの一撃で?! レヒン・ティルル、まさかこれほどの力を持っているとはね……」
次の瞬間、闇の力が剣から彼の身体へと侵入してきた。濁流のごとく襲いかかる闇の波動に、ハーンは必死で抗う。
(……! 力の反動も凄いな……。〈帳〉……このままこの剣を使い続けていたら、いずれ僕は闇に負けてしまうよ……)
朦朧とした思考の中、先ほどの老人の声が頭をよぎった。
(『闇を自分のものにしろ』……でもそれと、闇の虜となるのと、どう違うんだ……?)
「かはっ……」
ハーンの精神はとうとう限界に達し、意識を失った彼はそのまま地面に突っ伏した。
ディエルは、少し離れたところからこの顛末を見ていた。
「兄ちゃん……大丈夫かな?」
ディエルは頬をぼりぼりと掻きながらぽつりと言った。
「様子見にしては、ちょっとやり過ぎたかな?」
ハーンが演奏に興じている隙に、ディエルはレヒン・ティルルに少し細工をしていた。一回しか行使されないが、ハーンが剣を振るった時に、闇の波動をハーンの身体に入り込むようにしたのだ。ハーンの“力”がどのようなものかを試すつもりだったのだ。
だが――
「なっ……!?」
絶句。
ディエルは見た。気絶したハーンの身体から、天を突くがごとく闇の気の柱が発散されるのを。なぜハーンがここまで計り知れない力を持つのか、ディエルには分からなかった。
ハーンから発せられた気柱は、闇夜の中で凝縮され、龍のかたちをとる。夜の暗がりよりさらに濃い、闇の龍は空を駆け抜けていった。