フェル・アルム刻記
四.
楽しかったお茶の時間も終わった。四人は板張りの廊下をきしませながら、玄関へと向かった。
玄関の扉を開け放ったライカは、陽の光のまぶしさに思わず目をつぶる。
ライカが玄関から外に出ると、続いてルードと〈帳〉が、最後にハーンが表に出てきた。すでに玄関前には馬が荷物を載せ、待機していた。
ハーンは軽やかに馬に乗ると、
「さあて、と。じゃあ行ってきますね……と、そういえば、“外”には出られるんですか?」と言った。
「待ってくれ、今結界を解く。……三人とも目を閉じてくれ」
〈帳〉はそう言うと、低い声で呪文を唱えだした。何を言っているのか、ルードには分からなかったが、足下の感触が変わってきているのは分かった。
「さあ、いいぞ。目を開けてくれ」
「ああ……」
ルードは思わず感嘆の声をあげた。
――そこは一面の荒野だった。ひと月ぶりに見る、外の世界。ルードは今すぐにでもハーンとともに自分の村に戻りたい衝動に駆られた。だが、今の自分達は危険と隣り合わせなのだ。ハーンが危険の有無を確認するために旅立つというのに、自分までついて行くわけにはいかない。
ルードは望郷の思いを押さえ込み、馬上のハーンを見上げた。涙がこみ上げてくるのを必死にこらえながら。
そんなルードの気持ちを知ってか知らずか、ライカがちらとルードを見る。
「どうしたの?」小首を傾げる動作が可憐である。
「いや、なんでも……。そうだな、ハーンが道すがら食い過ぎて、食料が尽きて荒野のど真ん中でぶっ倒れなきゃいいなあ、なんてね」
「おーい……。それじゃあまるで僕が何にも考えないでいるみたいじゃないか」
拍子抜けした声でハーンが言った。
「だってそうじゃないか。ハーンがこの家であんなにだらしない生活をしてた、と思うと、つい、ね。普段もあんな感じなんじゃあないのかあ?」
「ぐ……」
あまりにも図星のため、次の言葉が出ないハーンだった。
「むむ……。ルード君だって、僕と似たようなものじゃないのかな? この前だってさ……」
互いのずぼらさを罵りあう二人。取り残された二人は、またか、と半ばあきれながら、お互いの顔を見合わせた。
「いつもと変わらないですね。いつまでもこんな感じが続けばいいのに……」ライカが笑う。
「なに。じきにそうなるものだ……」
〈帳〉はそのあと何か言葉を続けようとしたが、和やかな雰囲気を崩すかもしれないと思い、やめた。
「そうですね。わたし達、頑張らなくちゃ! そうしなきゃ、わたしだけじゃない、ルード達、この世界の人々は幸せになれないんですもの。……うん。頑張りましょう!」
ライカが、〈帳〉の言わんとした言葉を代弁する。
「そうだな」〈帳〉は、ただ静かにうなずいた。
ルードとハーンの言い争いは、ライカの一声でぴたりと収まった。
「じゃあハーン。叔父さん達や……ケルンやシャンピオ……村のみんなによろしく。家出同然で飛び出して来ちゃったから、つらくあたられるかもしれないけどさ……。すまないけど」
「なあに、そんなこと気にしなくっていいんだってば。君のせいじゃないんだから。……ま、僕らの状況を嘘いつわりなく話すか、それともちょっとお話を作るか。……それはその時の雰囲気に合わせて考えるさ」
「ハーン、とにかく、無理しないでね」と、ライカ。
「ありがとう! 焦って無理を強いたりはしないさ。旅の途中は出来るだけ気楽にいこうとは思ってるんだよね。じゃあないと心身が参ってしまうよ。でも、だらっと気を抜くのとは意味が別だと思ってる。勘違いはしないよ」
「そうね。わたし達も肝に銘じておくわ。今のハーンの言葉」
ライカはそう言って手を差しのばす。ハーンも馬上から手を伸ばし、二人は固く握手を交わした。
「四人で、デルネアに会いに行きましょう」
ハーンはうなずいた。
ルードもライカも、ハーン単独でデルネアに会わんとしているのを知らない。それは〈帳〉とハーンの間の秘密だった。
「では……!」
ハーンは馬の手綱をつかむ。
「僕、本当に行きますけど。〈帳〉、何かありますか?」
帳はただ首を横に振るのみ。
ハーンは笑みを浮かべ、うなずいた。
「分かりました。あなた方の信頼に感謝します。天土《あまつち》全ての聖霊達にかけて僕は応えましょう。そして、あなた方に祝福のあらんことを!」
三人はしばしハーンと無言のまま対峙した。
「うん。頑張ってくれ、ハーン! あんたからいつ返事が来てもいいように、俺達も準備を怠らないようにするよ」
「ふふふ。心強いねぇ、ルード君。じゃあ、また会おう!」
そう言って、いよいよハーンは馬を歩ませた。
「天土の聖霊ねえ……。ハーンも時々大げさなこと言うわよね。そこがまた面白いけれど」
手を振りながらライカは、横にいるルードに話しかける。
「それがティアー・ハーンさ!」
ハーンは目配せをして答えた。その言葉を最後に、ハーンは三人に背を向けて、馬を早足で進ませ始めた。残された三人は、ハーンの姿が丘の向こうに見えなくなるまで見送っていた。
「行っちゃったわね、ハーン」
「ああ……」
ルードもライカも、目は未だ丘を眺めている。しばらくの間三人は“遙けき野”の乾いた風を身に受けていた。
「さて、では私達は戻るか」
〈帳〉が言った。
「もう少しだけ……ここにいます。いいですか?」
ルードは相変わらず前方を見据えたまま、言葉だけ返した。
「そうか……」
〈帳〉はそう言うと、近くの岩に腰掛けた。
ルードは、スティンの山々が見えないものかと目を凝らしたが、枯れた荒野以外、何も見えない。
「“遙けき野”――本当にここって何にもないんだな……」
「寂しいところよねえ。まるで、世界中にわたし達三人しかいなくなっちゃったみたい……」
ライカの言葉を聞いてルードは思った。もし世界が崩壊してしまったら、こんな情景になってしまうのだろうか。生命は絶え、荒廃した大地のみが永久に残る――。いや、この空の下に大地など無かったかのように、全てが消え失せてしまうのかもしれない。
「さてと」
決意も新たに、ルードは胸の前で拳を握りしめた。
「〈帳〉さん。戻りましょう。ハーンとはまた会える。その時のために、今は館に帰りましょう」
「分かった。目を閉じてくれ」
〈帳〉は立ち上がると、再び呪文を唱え始めた。
ルードは足下の感触が変わっていくのを感じながら、心の中でハーンに呼びかけた。
(ハーン、近いうちに……)
『ルード……おそらく近いうちに、また会いましょう……』
ルードの脳裏を一瞬よぎるのは大人びた女性の声。どこかで聞いたことのあるような声。今回は夢うつつではなく、確かにルードの耳に聞こえてきたような気がした。