フェル・アルム刻記
三.
それからさらに一刻ほど後、場所はスティン高原。
ルードはケルン宅で談笑していた。ミダイ夫妻――ケルンの親代わりを務める彼の親戚――はベケット村に出かけており、ケルンがこの家の留守番をしていた。ルードもケルンの家にこんなに長いこと留まるつもりではなかったのだが、降りしきる雨のせいで帰るに帰れずにいた。ナッシュの家にいるライカは不安がっているだろう。
ケルンの話では、あの時ルードが光とともに消えてしまった後、村中大騒ぎになったようだ。神隠しだなんだと騒がれたのはもちろんのこと、村人総出でまる三日間ムニケスの山を探しまわったそうだ。三日目の夕刻に、ハーン達が昏睡しているルードを連れて帰ってきたことで、捜索は打ち切りになったが、もし一週間捜して見つからないようであったならば、ルードの葬儀が行われる予定だったようだ。三日間、ニノとミューティースは泣きはらしていたようで、ルードはあらためて、申しわけない気持ちになった。
ケルンは変わらず、時々憎まれ口を叩きながらルードと話していたが、再び親友と出会えた喜びは隠し通せなかった。
[……さてと、俺、そろそろ帰ろうかな]
一段落ついたところで、頃合いを見計らいルードが言う。
[でも、この雨だからよ、もう少しうちにいろよ? な?]
と、ケルン。
[でもライカが寂しがっているかもしれないしなぁ……]
ルードは、もっとも親しいケルンだけには、ことの顛末《てんまつ》を語っていた。ケルンもそのあまりの不可思議さに呆然とするのみだったが、やがて『ルードの言うことなら』と納得してくれた。
[ライカ、か。あの銀髪の可愛い子だろ? でも彼女、口が利けないっていうじゃないかよ、かわいそうだよな]
[いや、それが違うんだ。俺はライカと話せるんだ。……俺達の言葉とは違う言葉でね。彼女が話せるのは、俺達が失った言葉らしい]
ルードの言葉にケルンは、腕を組んで唸る。
[しかしさ、今度ばかりはまさに事件《こと》だよなぁ、ルードの話全部が突拍子も無くて……俺の脳みそじゃ、正直ついていけねえんだわ]ケルンが言う。
[ははっ、俺だって同じさ。実際のところ、誰かにしゃべっておかないと不安に潰されて狂っちまいそうになるんだぜ?]
ルードは正直に胸のうちを語った。自分はまだ、こうしてざっくばらんに話せる人間がいてよかった、と思う。ライカはどうだろうか? 彼女にとって、不安のはけ口となる人間は、自分しかいないのではないか?
彼女とは今まで、本当の意味でうち解けあってるとは言えなかった。意思を疎通する手段が無かったのだから。彼女がルードを頼ってくるようになったのは、『話すことの出来る仲間』という意識からだろう。昨晩、はじめて会話した時から、ライカとの間に信頼関係が確立したようにルードには思えた。
その時から、ルードはもう一つの苦悩、今まで深層に隠れていた葛藤を認識した。
(なんで、俺がこんな目にあわなきゃならないんだ?)
自分の身に起こってきた半ば宿命がかった出来事をうらむような、そんな思い。
ライカと遭遇したのが自分ではなく、例えばケルンだったとしたら、どうなっていたのだろう? 今まで自分が体験してきたものと、同じような出来事が、ケルンの場合でも起こり得たのだろうか?
でも、それはあくまで仮定だ。どうあがいても、分かるわけがないし、今さら変えられるわけでもない。現実は今も、状況が流れているのだ。――河のように。
[……やっぱり常識っていうのは脆いもんだなぁ、昨日まで真実だと思っていたことが今日も通用するとは限らない……今度ばかりはそう思うぜ]
ケルンがそう言って天井に目を泳がせる。
[何言ってんだか。ひと月前の祭りの日に俺にそうやって熱弁したのは、ほかでもないケルンだろうに?]
ルードは笑ってみせた。
[へえ、よく覚えてるなぁ、あの時のことなんて忘れちゃったぜ、俺なんか。なんせ、酒をシャンピオ達と飲んでてさ、気付いたら――]と言って床を指差す。
[ここにいるんだからよ、……ルードとしゃべったってのは、まったく酒の上の出来事ってやつさ!]
そう言って豪快に笑うケルン。つられてルードも苦笑する。
その時。表の扉を何度も強く叩く音が彼らに聞こえた。
[あれ、帰ってきたのかな?]と、ルード。
[いや、この雨だぜ? こいつが止むまで親父さん達が帰って来れるとは思えないんだがよ……]
ケルンはそう言って立ち上がると、玄関まで歩いていった。
[あ、あれえ?! どうしたの?]
ケルンの驚いたような声が聞こえたので、ルードも玄関へと向かった。
降りしきる雨の中、ハーンとライカがいた。クロンの宿りからの道中と同じように、馬二頭を引き連れて。よく見ると、ハーンの、そしてルードのものと思われる荷物もしっかり乗せてあるではないか。
開口一番、ハーンは言った。
[やあルード、出発するよ!]
[へ?]思わず声が裏返る。
[……まさか、今から行くのか? 遙けき野に?]
ルードはまったく事態がつかめない、といったふうにハーンに問い掛けた。
[うん、そういうことだよ。さささ、乗った乗った! もう荷物も積んでるしね]
ハーンはルードを急かすように、手招きする。
[あ、あのう……本当……にか?]
ルードは、再度ハーンに尋ねた。
[うん、本当だよ。さすがにちょっと予想外だったかな?]
ハーンは即座にきっぱりと返答した。
(なんで、こんなに突然なんだよ!)
ルードは心の中でハーンに悪態をついた。
[ルード?]
事態がつかめないのはケルンも同じ。ハーンに導かれて表に出たルードを目を丸くするように見ていた。
[……あのさ。俺達、ちょっと遠くまで行ってくるから……]
ルードが振り返り、ケルンに言う。半ば困惑した表情で。
[そういうことでね。そうだなあ……二、三週間ほど留守にするよ。すごく迷惑なことだとは分かってるんだけどさ、やむにやまれぬ事情というのがあるんだよ]
申しわけなさそうにハーンが言う。
[行ってくるって? 大体さあ、見ろよ、こんな天気だぜ?]
ケルンの言葉でルードはふと気付いた。
(ハーンのまわり……雨が降ってない。……っていうより雨がよけてるような?)
馬に乗っているライカを見ると、彼女もまったく濡れていない。こんな不思議な現象が起こっているというのにも関わらず、ライカは平然としていて、不思議がる様子もない。
(何なんだよ? これは……)
ルードが馬に近づくと、その場所が雨を完全に遮断しているのが分かった。ルードは小首をかしげた。
「これはね、“術”よ」ライカが小声で話しかけてきた。
「じゅつ?」ルードはまるで分からない、といったふうに素っ頓狂な声を出した。
「あれ? ひょっとして知らない? 魔法ともいわれるんだけど……本当に、まったく、知らないの?」
ライカは意外そうな表情をした。魔法など、おとぎ話の産物ではないのか?
「そう……。この世界ではその存在を知られてないのしら。とにかく乗っちゃいなさいな。ほら!」