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フェル・アルム刻記

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三.

 旅程の二日目。
 何か大きな音がしたために、ルードは目を覚ました。一体なんだというのだろう? 半ば寝ぼけた面持ちで顔を横に向けると、何か固いものが頭に当たった。
[痛てて! ……ん?]
 顔に当たったものはタールの端だった。それを抱えているのは、なんとライカ。彼女は一瞬驚いたふうにみえたが、小悪魔的に微笑むと、再び無造作にタールの弦をかき鳴らした。慈悲のない音圧がルードの耳に響く。
[わ、分かったよ、起きるからさ!]
 これ以上やられたらたまらない。ルードが急いで起き上がると、ライカはタールを立てかけ、くすりと笑ってテントの外に出ていってしまった。
 やれやれ、とルードはテントの外に這い出す。朝の森の匂いが嗅覚を刺激する。あたりは多少霧が出ているようだが、やがて晴れるだろう。ようやく今日の夕方には村に帰れる。
 ルードは笑みを浮かべた。ライカがあんなふうに自分の世話をやいてくれるなんて。彼女の心が徐々に開かれつつあるのが分かり、それがルードにとってたまらなく嬉しかった。

 スティン高原への旅は、今日も順調である。森を抜けた後しばらく、高原の花咲く草原が続いていたので、ルード達はその風景を楽しみながら馬を進めた。太陽の注ぐ正午の森は昨晩とは違った穏やかな雰囲気を見せ、一行を和ませていた。ハーンの口調はいつもどおり。昨晩のような真摯な口調はまったくみせない。
 やがて街道は再び深い森の中へと入り込む。前を行くハーンは両手で手綱をぎゅっと握り締める。それまでの平坦な道から転じて、勾配のきつい下りとなったからだ。もう一頭の馬の手綱を握るルードに、ライカがしがみついてくる。
 道が再び緩やかな下りになり、大きく右に曲がる時、前方の視界が開けた。
[ああ、見えるよ、ほら! 君の知ってる場所だ!]
 ハーンが、前方を指差す。
[おお!]
 ルードは間髪入れずに感嘆の声をあげた。右斜め前にはムニケスなどルードの知っているスティンの山がある。そして山々の裾野をつうっと伝っていくと、見慣れている開けた土地が見える。
 早く村に帰りたい、そんな気持ちで満たされたルードは馬を急がせた――。
 そんな矢先のことだった。異変が起きたのは。

* * *

(な……なんだ、あれ?!)
 二十ラクほど先の空間が一部、渦を描くようにぐにゃりと歪んだのだ。目の前に真っ直ぐ伸びているはずの道が、円状に渦を巻いているように見える。ルードは手綱を引き、馬を止めた。
[どうしたの、ルード? ……ふむう……]
 ハーンが異変に気付き、馬を下りて駆け寄ってきた。彼の左手には円盾が、右手には剣が握られている。長い刃の中心部は柄の部分から刃先まで、宝飾品のごとく奇麗な意匠がなされており、儀仗《ぎじょう》用のものにすら見える。太陽が当たってもいないのに、その刀身は銀色に鈍く光って見えるようだった。
 奇妙な円状の空間はそして、歪んだ風景を一切写さなくなった。暗黒の宇宙をそこだけ円形に切り抜いたかのような、漆黒の空間と化したのだ。
 かちゃり、という金属の音。ハーンが彼の剣を両の手でしっかりと握り直したのだ。ハーンは戦士の表情に変わり、じっと円を見つめている。

 ひゅっ!
 円の中から音がしたかと思うと、何かがうち放たれた。それに驚いたルードの馬が嘶《いなな》く。
[ルード、下がっていて!]
 ハーンの指示にルードは従い、少し後ろに下がる。ルードは馬から下りると、鞍に備えてある自らの短剣を持ってハーンの斜め後ろまで来た。
 しゅるる……、というおぞましい息遣いが漆黒の向こうから聞こえてきた。
[ルード君はライカを守ってやってくれないか?]
 ハーンが円を見据えたまま、ルードに囁く。落ち着いたその声は、戦いを前にした戦士の声だった。
 ルードは二、三歩下がり、ライカを見る。彼女も馬を下り、目の前の異常な光景に怪訝そうな表情をしている。
 再び、ひゅっ、という音がすると、側にあった木にそれが巻き付いた。
 長く、人の腕ほどの太さを持つ紫色をした触手。吸盤のない蛸《たこ》の足のようなそれは、どくんどくんと脈打っていた。触手に巻き付かれた幹は、みしみしと音を立てる。円の中の『もの』が外に這いだそうとしているのだ。しゅるる、という不快な息遣いが次第に近くなってきている。
[ば、化け物……]ルードは顔をしかめた。

 機を見つけ、ハーンが動いた!
 盾を構え、足下の土を軽やかに蹴り、走る。そして剣を振りかざすとすぐさま、紫の触手にむけて振り下ろした。風を切る唸りとともに、銀色の光が曲線を描く。ハーンは剣を叩き付けて触手を一刀両断にした。触手の切り口から体液のようなものがほとばしる。触手の先端は幹に巻き付いたままだが、残りは暗黒の空間の中へと消え、中から悲鳴のような声が聞こえた。貪欲な獣のような咆哮《ほうこう》だ。
 ハーンは勝利を確信したように黒い円を見る。が、黒い円の中から紅に光る二つの瞳らしきものを見た時、ハーンの表情は変わった。
[まだか。この魔物め……何てこったい!]
 悪態をつきながらハーンは円のほうへ、得体の知れない何かのほうへ駆けていく。
 その時、ルードは自分の背後に風を感じた。後ろを振り返ると同時に、風は空気を切り裂く音とともにルードの横を通り過ぎ、まっすぐ標的――瞳を爛々《らんらん》と輝かせる黒い円――へと正確に走っていった。時を同じくして、強烈な風圧がルードを通り抜けていった。
 そう。彼の背後から、化け物めがけて。
(これは――かまいたちか?)
 ルードはなびく髪を手で押さえつつ、後ろを振り向いた。構えた姿勢で両腕をまっすぐ前に突き出し、両の手を開いているライカの姿があった。風を受けた彼女の長い銀髪は乱れ、後ろへなびいている。
(まさか、ライカがやったのか?)

 ハーンは化け物に斬りかからんとしていた。しかし、円の中からひゅっ、という音が聞こえてきた。ハーンが気付いた時には遅かった。伸びてきたもう一本の触手をかわせず、胴体に巻き付かれてしまったのだ。
[……っ!!]
 ハーンは声にならない悲鳴をあげた。怪力で締め上げられているハーンは体勢を崩し、剣を離してしまった。

 ちょうどその時、かまいたちが標的に命中した。剣で何回も切り付けるような音がする。円の中の化け物は、忌々しい叫び声をあげ、もがき苦しんだ。
 ハーンの身体は触手から解放されたが、ハーンの意識は朦朧《もうろう》としており、立ち上がることすら叶わなかった。ハーンは二、三歩ふらついて、ばたりと地面に倒れ込んだ。
[ハーン!!]
 ルードはハーンのもとへ走った。触手が再びハーンを捕捉しようとしている。ルードは自分の短剣で構えると、伸びてくる触手を薙ぎ払った。しかし、ルードの思いとは裏腹に、傷を負わせたという手応えは感じられなかった。所詮は刃こぼれした短剣だったのだ。触手は一瞬引っ込んだが、今度はルードのほうへ照準を絞ったようだった。ルードは敵の威圧にのまれて引き下がった。こつんと、何か固いものが彼のかかとに当たった。

 ルード!!
作品名:フェル・アルム刻記 作家名:大気杜弥