フェル・アルム刻記
* * *
それから季節は巡り――。
荒涼とした大地にも、再び春が訪れようとしていた。
春。
北方のスティンの山々が“混沌”に飲まれて消滅してしまった今、もはやそこに羊飼い達の姿を見ることはない。
上流の山を失ってしまったクレン・ウールン河の流れもすっかり枯渇してしまった。流域の平原――ウェスティンの地は痩せ細り、かつての面影はない。
しかし望みが失われることなどない。
羊飼い達は東部域、セルと呼ばれている山地にて新たな生活を送ろうとしている。
そしてこの地にもかすかに、だがしっかりとした、新たな希望が生まれようとしているのだ。
ウェスティンと呼ばれていた荒野の中にひとり、彼女は立ちつくし、思いを巡らすように目を閉じていた。
目の前の土はやや盛り上がっている。そこに友が、やすらかに眠っているのだ。
墓には一振りの剣が置いてある。近衛隊長だった親友の生前には、美しい銀色を放っていた剣。長いこと墓標の役割を果たしていたため、今となってはすっかり赤錆てしまっていたが、この錆は剣の価値を無くすものではない。“混沌”の襲来をはねのけたものの、すっかり荒れ果ててしまったこのウェスティンの地に、恵みの雨がもたらされた証にほかならないのだから。
彼女は目を開けると、ひざまずいて剣の柄を手に取る。この剣で自らの髪を切ってから、九ヶ月が経とうとしている。彼女の艶やかな黒い髪も、元どおりの長さにまで伸びていた。
こうして春が巡ってくるまでの間に、色々なことがあった。
まず、遙か昔より隠蔽されてきた、本当の歴史が公開された。
それまでにも、アズニール語の復活や、魔物の襲来によって苦しんでいた人々だが、真実に直面することによってさらなる混乱に陥った。しかしながら、今は人々もそれらの現実を――アリューザ・ガルドの世界にいるということを受け入れ、立ち直りつつある。
彼女自身も帝都アヴィザノに帰還してのち、枢機裁判に身をおき、ドゥ・ルイエの絶対的権限を自ら放棄した。今の彼女は、幼少の頃よりの名前でもって、この地を治め導いている。
そしていずれはこの大地にも、東方の国々から人々がやってくるのだろう。彼女の友人達が東方に渡り、今なお旅を続けているように。
「――ルミ。そろそろ私は行くよ。また近いうちに来るからね。こんな……何もない寂しい場所に、あなたが眠っているのは私にとってつらいんだけど……」
サイファはしかし、ふと笑みを浮かべる。気付いたのだ。それまで剣の置いてあったところに何があるのかを。
彼女は魅入られたようにそれを眺めつつ、言葉を紡いだ。
「でも……枯れてしまってるのは今だけね。色々なことがゆっくりだけれども動いている……。ここもいつの日か、緑豊かな大地へと育っていくに違いないのね……」
サイファはゆっくりとかがむと、そこに芽生えようとしているほんのちっぽけな草を――しかし確かな生命をはぐくむ、希望をもたらす若芽を――愛おしむようにそっと撫でるのだった。