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フェル・アルム刻記

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五.

 スティンの麓ラスカソにて黒い雲に襲われ、命からがら逃げ出してから一日が過ぎた。ルード達はサイファとジルに出会い、さらに一日を経てスティンの丘陵を下り、夜も遅くなった頃にここ、ウェスティンの地に辿り着いたのだ。
 しかしここから先、街道を進むことが出来なくなっている。街道を西に進むと、やがてかの決戦の地、ウェスティンの地に行き着く。そこでは二千の烈火が街道をおさえており、そこから先、サラムレに向かうことが困難なのだ。かといって、街道からはずれて道無き草原を南下したとしても、セル山地の手前には断崖があり、結局のところサラムレを経由せずして南に逃げることは出来ない。
 つまり、烈火と相まみえずには先に進めないのだし、ルード達の旅に終止符は打たれない。もはやウェスティンの地に向かうしか手段はないのだ。
 そして――そこにはデルネアがいる。“力”ある者の到来を待ちわびている。どのような展開となるのか、ルードにも〈帳〉にすらも見当がつかない。だが、ことがそう易々とすすむような安易な考えは持ち合わせていない。
 場合によっては戦いすらあり得る。しかし、デルネア個人ならまだしも(それであってもきわめて強力な相手であることには変わりないのだが)、二千の烈火達と戦うことになった場合、勝ち目などとうていあり得ない。累々と死体の山が積まれ、クレン・ウールン河が赤く染まるのだろう。

 目下のところ、黒い雲はスティンから動く気配をみせていない。また、中枢の騎士達と会うのに、夜は避けたほうがいいという意見が多数を占めたため、明日の朝、烈火の逗留地に向かうことがすでに決まっている。
 先頭に立つのは運命の渦中の者達――すなわち、ルード、ライカ、〈帳〉。そしてディエル、ジルとサイファ。その列のあとにはスティンの領主メノード伯、スティンの村々の長達が続く。
 北方の惨劇を目の当たりにしている人々は、何が最善なのかをよく認識していた。領主らの政治力を持ってしても引くような烈火ではないことを予期し、避難民の先頭を――すなわち烈火達と交渉するという任務を、ルード達に任せたのだ。

* * *

「あ……」
 ライカは思わず声を漏らした。
 どんよりとした雲がさあっと立ち去り、ウェスティンの地の夜空一面、晴れあがったがごとくに星が瞬きはじめた。今や夜の空は“混沌”が支配するものとなっているというのに、この情景は夢かうつつか。満天の星空はまるで太古の時からなんの変遷もないまま、煌めいているかのようだ。
 ともに避難をしている人々は寝静まり、虫の音と大河の流れる音が心地よく調和して聞こえる。魔物の気配など、みじんも感じられない。今、ここにあるのはまったき平穏だった。
 ただ、風は止んでおり、幾分か空気のよどみを感じる。それが小さいながらも異質な圧迫感だった。デルネアの気配が近いためなのだろうか?
「星が見える?」
 ライカと身を寄せ合うようにして座っていたルードも、空の様子に気付いた。このような美しい夜空を見るのはいつ以来なのだろうか? ライカは星々を一つ一つ確かめるように見つめながら、思い出そうとしていた。
 〈帳〉の館にいた頃はどうだったろうか? 思えば空が漆黒に染まったのは、自分達が館をあとにする数日前のような気がする。それとてほんの二週ほど前の出来事であるのに、ライカにはひどく昔のことのように思えてならなかった。
 次に思い出したのは、〈帳〉の館で過ごしたひと月あまりの生活。〈帳〉がいて、ハーンがいて、そしてルードがいて――。色々なことを学びつつ楽しく過ごした毎日。今はもうあの頃に戻るなど出来はしないが、あの生活があったからこそ、自分達はこうしてウェスティンの地にいるのだ。
 得たものは、知識とたくましさ。それをもって、混乱の彼方にある平穏をつかむのだ。あと少しで、その時が来る。
「館以来、なんだろうな。こんな星空を見るっていうのは」
 ルードは言った。
「この夜に限って、どうしたってんだろうか? 俺達は幻を見てるっていうのかな? 俺も子供の頃からよく星を見てたりしたけど……どうも星の位置がどこか変に思えるんだ」
「多分、幻じゃないわね。私がよく見たことのある空だもの」
 ライカはそう言って、南天、ユクツェルノイレ湖の方角にひときわ明るく、青白く煌めいている星を指さした。
「エウゼンレーム。あれは、アリューザ・ガルド南方を護る聖獣の名前を持つ星よ。そのとなりに小さく瞬いてるのがツァルテガーン。エウゼンレームの子供の星ね」
 ルードはきょろきょろと星々を見渡した。
「ていうことは……アリューザ・ガルドの星々を、俺達は見てるってことなのか……どうりで俺の知っている星が見あたらないと思ったけど、でもどうして? あ……」
 その時、彩っていた星々はかき消すように見えなくなり、夜空は再び漆黒に覆われた。そこに見えるのはただ星なき暗黒の世界。“混沌”が統べる世界。
「戻っちまったな……」
「ひょっとしたら、今の瞬間だけ、フェル・アルムはアリューザ・ガルドと繋がっていたのかもしれないわね。私とルードがはじめて会った時のように」
 世界にもし意志が存在するというのなら、本来あるべき自然の姿への回帰を求めているのだろう。
「あの星空は、俺達のことを祝福してくれたのかもしれないな、俺はそうも思いたいぜ。何せ……いよいよ明日だからな」
 ルードは横に立てかけてあったガザ・ルイアートを見つめつつもライカの銀色の髪を撫でた。
「デルネアと、二千の戦士――明日彼らに会うっていうんだからな。ほんのちっぽけなことでもいい。なんであれ、うまく行くような良い兆しが欲しいんだ、俺は」
 ルードはライカの肩を抱いた。
「……大地が唸っているのが俺には聞こえる。まるで、決戦を待ちわびているかのように。ライカは?」
「風は止まっているわ。空気が何か忌々しい感じね。闘気すらはらんでいるようにすら感じられる……」
「デルネア……世界を元に戻す方法なんて、そう易々と教えてくれないんだろうな。やっぱり……」
 この先にあるのは、やはり戦いなのだろうか?
 自分達の、人々の、そして世界の運命を決定づける、あまりにも大きな戦いが待ち受けているというのだろうか。
 ルードとライカは、お互いの不安をうち消すために、生への渇望を得るために、そしてお互いの想いを確かめるために、しっかりと抱きしめあった。
「ルードも強くなったものね。ほんとう」
 目をつぶったままライカは言った。ルードは何も語らない。
「わたしは――どうなのかな? 〈帳〉さんの館を出てからずっと、ルードと〈帳〉さんに頼りっぱなしな気がするの。わたしは……どこも変わってないのかな?」
「強くなったかどうかなんて俺自身も分からないさ」
 ルードは言った。
「俺の剣技はガザ・ルイアートのおかげで途方もなくすごいものになってるって、その実感はあるけどさ」
「……じゃなかったら、竜なんてとても倒せないものね」
「ああ、でもあれは〈帳〉さんやディエルがいてくれたから倒せたようなもんだ」
 ルードはライカの両肩に手を置いた。
作品名:フェル・アルム刻記 作家名:大気杜弥