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フェル・アルム刻記

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§ 第九章 それぞれの思いと



一.

 忌まわしい夜がまた訪れる。
 それが意味するものは、絶望と滅びにほかならない。
 ウェスティンの地に夜霧が立ちこめていき、周囲の低木がたちまち視界から消え失せる。漆黒の空は分厚い雲に遮られ、湿り気をおびた風が強くなる。

 ドゥ・ルイエ皇からの勅命が出てからというもの、烈火は留まることなく黙々と北方への進軍を続けていた。が、烈火の将デルネアの命により、今はこのウェスティンの地にて進軍を留めている。
「どうやら将軍は、ここより先に進むのをためらっているようだ。いよいよになって怖じけづいているのか?」
 そんな風説が烈火の戦士達にひそかに囁かれるも、当のデルネアの姿を見た者は、そんな噂を打ち消しにかかった。将軍には何か策があるに違いない。ここはかつて奴らを葬り去った場所なのだから。
 駐留を始めて二日目には、烈火達はそう思い始めた。

* * *

(いよいよ……か。近づきつつあるのを感じる。その時が)
 デルネアは深夜の平原にひとり立つ。
 トゥールマキオの大樹の中にいた頃に感じた、あの強力な“力”の存在。今また、大樹から遠く離れたこの地にて、微弱ではあるがその存在を感じ取っていた。さらには、“力”を持つ者の意志をも。それは、疑念、畏怖、そして敵視。
「来るがいい。“力”を持つ者よ。我はここにいるぞ。お前が見識ある者であれば、烈火が北の民を討つなど、ましてニーヴルの存在など根も葉もないことと知っておろう。烈火の暴走を見逃すはずがあるまい? さあ、暴走を止めようというのならば、来い」
 フェル・アルムの調停者は低い声でつぶやくように、立ちこめた霧に向かってひとりごちた。
 そして、我にその“力”を捧げるのだ――!
 不意に、デルネアはかつての盟友、〈帳〉の顔を思い出した。
(〈帳〉……)
 心の中でデルネアは、力を失った友人に呼びかけた。
(お前のことだ。もうすでにこの異変には絡んでいることであろう? 世界がほつれつつある、というのだからな! ……だが、お前の些細な心配などもう必要ない。ことは我の思うままに進むであろうよ)

 背後からひたひたと近づく気配に気付き、デルネアは振り返った。
「……誰か?」
「失礼を致しました。〈要〉《かなめ》様」
 恭しげなしゃがれ声が聞こえ、黒装束に包まれた〈隷の長〉が霧の向こう側からぬっと現れた。
「今度はなんだ」
 デルネアの声色があからさまに厳しさを増す。
「また討ち漏らしたというのか。次は無いと言ったはずだが」
 〈隷の長〉は、主の言動を予想してはいたものの、恐れおののき、許しを求める罪人のごとくたじろいだ。
「……ご報告、申し上げます」
 しばし、畏れのあまり声が出なかった〈隷の長〉はようやくわなわなと声を震わせた。デルネアは顔色一つ変えていない。が、〈隷の長〉には分かっていた。デルネアは純粋な怒りの感情をその奥に秘めているのを。その感情が〈隷の長〉を真っ向から襲っている。強い意志を持っていないと意識など消え去ってしまうだろう。
「ここ数日、烈火をつけ回していた者達ですが、ようやく疾風によって片を付けました」
 〈隷の長〉はデルネアの顔色を窺うかのように、そこで報告を止めた。
「……続けよ」
 デルネアは冷たく言い放った。
「――向かわせた疾風の二人は、件の者どもを完全に片づけました。……惜しむらくはかの敵と相討ちとなりましたが、それも致し方なかったやもしれませぬ。何しろ――」
 〈隷の長〉はその者達の名を告げると、デルネアに恭しく一礼し、立ち去ろうとした。が。
「二人……。わずか二人の疾風だと? ……なぜ二人しか疾風を動かさなかった?」
 憤りに満ちたデルネアの言葉に、〈隷の長〉は足を止め、再び主に向き直らざるを得なくなった。
「……ひぃ?!」
 彼は奇声を上げ、やや後ずさった。
 デルネアの右手に握られているものは蒼白く光る剣。デルネアは一歩前に出るともう一度、同じ質問を繰り返した。
「なぜ二人なのだ?」
 デルネアの殺気を全身に浴びた〈隷の長〉はただ何も言えず立ちすくむのみ。
「……〈隷の長〉よ、無くなるか?」
 それが意味するところは死。デルネアは冷徹に言い放ち、剣の切っ先を下僕の額に突きつけた。老人の額が割れ、鮮血が吹き出るのも構わず、デルネアは切っ先を少し押し込んだ。
「貴様を〈隷の長〉にしたのは我の愚かさよ! もとより、貴様は隷となった頃からすでに自我を持ち過ぎていたのだからな。我はさきにも言ったはずだ。烈火をつけ回す蝿どもは、その正体いかんに関わりなく、消せ、と。我が命のみを聞いていればよかったものを……お前は愚かにも先走り、件の者どもの正体をつかんでいたな? だから殺せなかった。フェル・アルム王室――ルイエに繋がる者どもだからな」
 黒装束の足下の地面は、赤く染まっていく。血まみれになった〈隷の長〉は、眉間に剣を突きつけられたまま、恐怖におののいた目を左右に動かして周囲の様子を窺った。誰かに助けを求めようというのか。
「安心せよ。周囲には誰もおらぬ」
 デルネアは歪んだ笑みを浮かべる。
「今一度問う。貴様の主は誰か? ――我か、それともルイエか。申せ」
「むろん〈要〉様――デルネア様をおいてほかにございません」
 隷の長はぎこちなく口を開けて、声を発した。
「ふん」
 デルネアは剣を手元に戻した。
 張りつめた糸がぷつりと切れるように、〈隷の長〉は力無く倒れた。意識を半ば取り戻した彼は、両手を地面について荒い呼吸を繰り返した。
「確かに……私自身が躊躇した面というのもございます」
 老人は、襲いかかる畏怖の念のあまり、もはやデルネアを見上げることが出来ず、目の前の地面に向けてひとりごちるかのように、ただぶつぶつと言葉を続けた。
「しかしながら、疾風を二人しか割けなかったのは、致し方ありませんでした。疾風の中にも、かの黒い雲や魔物を恐れている者が多数出ており、北方より逃げ出す者すらいる始末。……そのような現況です。まともに動ける疾風を見つけだすのに無駄な時間を要してしまいました。……どうか私めを無くすのだけはお慈悲を! 平にご容赦下さい!」
 なりふり構わず、老人は地面に何度も頭を打ち付けて謝罪した。
「無能が」
 ざん、と。ためらいもなく、デルネアは剣を振り下ろした。
 それまで〈隷の長〉であった老人は、悲鳴を上げる時間もないまま、絶命した。
「誰か!」
 デルネアは大声をあげ、周囲に響かせた。やや遅れて、烈火のひとりが駆けつけてきた。まだ若いその戦士は、やや眠そうな顔であったが、地面に伏せている骸を見るなり顔をしかめ、デルネアに問いかけた。
「将軍閣下。……この者は一体?」
「我が側近のひとりであったが、その実ニーヴルであったことが分かった。だから処刑したのだ。この汚らわしいものをどこかに捨て置け」
 デルネアは偽った。烈火の戦士の二言めを言う機会を与えず、デルネアは立ち去った。
(……小娘め。このデルネアの動向を疑わしく思うなぞ、なかなかの観察眼よ。しかしもはや、お前の切り札は尽きた。お前の邪魔は入らぬぞ。全ては、この地にて決着をつけるのだからな! ――そして、全てが新たに始まるのだ)
作品名:フェル・アルム刻記 作家名:大気杜弥