フェル・アルム刻記
「サイファ、ちょっと、落ち着きなさいよ」
「こう見えても、私はいたって冷静なつもりだぞ! ルミ!」
顔を赤くして怒るそのさまは、激昂しているようにしか見えなかった。サイファの感情の起伏が激しいというのは、ルミエールも長年のつきあいでよく分かっているが、ここまでサイファが怒りを露わにするのも珍しいことである。さすがのルミエールも、ただ狼狽するしかなかった。
「……分かったよ、サイファ」
エヤードが言った。
「たしかに、俺のほうが間違っていたのかもしれない。今の俺達はマズナフ一家だ。どんなことがあっても、娘を置いて先に進むなんてことは出来ないよな? サイファ」
「分かってくれればいい。そしてありがとう。家族としてみてくれているのが何より嬉しいんだ。私の……わがままなのかもしれないけど、家族というのがこんなに心地いいものなんだとは、長いこと忘れていたような気がする」
サイファはばつが悪そうにそっぽを向いた。
「約束して欲しい。もうこんな抜け駆けなどしない、と」
「ええ、では……神君に……いえ、サイファにかけて、抜け駆けなどしないことを誓うわ」
「私などにかけても、誓いに効力など無いかもしれないぞ?」
そう言いつつも、サイファはどこか嬉しそうだった。
フェル・アルムにおいては、物事を誓う時、まず神君ユクツェルノイレに対して誓うのが慣習となっているのだ。
しかし、今のルミエールにはなぜかそれが躊躇われた。
(やはりサイファと同じように、心の底で私も神君の存在を疑っているに違いない。こうまでまざまざとフェル・アルムの実状を目の当たりにしてしまうと、今までの平穏な千年間がまるで意図的に作られたもののようにすら思える)
ルミエールは思った。
その夜。
サイファ達は水門をくぐり、クレン・ウールン河の静かに流れる音を左手に聞きながら、漆黒に包まれた街道を歩き始めた。この先にあるのはウェスティンの地。十三年前に戦いが繰り広げられた悲劇の平原である。烈火はそこで逗留しているのだ。もちろん、デルネアその人も陣を構えているに違いない。彼は今、何を思って平原に留まっているのか?
今までだって、不吉とされる“刻無き時”を徹して旅を続けていたが、こうも不安や恐怖にとらわれることなど無かった。サイファは無意識のうちに胸元の飾りを――ジルからもらった珠を――探っていた。言葉にこそ出さないものの、彼女も恐怖を覚えていたのだ。それは、彼女自身が未だかつて感じたことのない、死への恐怖だった。
エヤードは疾風に襲われたのだ。デルネアに真相を問いただす前に、あの野心家の暴走を止める前に、自分がやられるかもしれない――そんな恐怖心がサイファを苛んでいた。
しかしながら、それでも前に進むしか道はないのだ。このまま引き返して、アヴィザノの宮中で烈火の報せを待つのも一つの手かもしれない。烈火のはたらきによって、再び平穏たるフェル・アルムが戻るというのならば、それでもいいだろう。
しかし、それが真実を隠蔽したままの平穏であることをサイファは知っている。そして、そのようなかりそめの平穏は、いずれ大きな悲劇や災厄を招くであろうことを予感していた。それだけは絶対に避けなければならない。だからこそ、自分達は恐怖に駆られつつも進むのだ。
自分ひとりでは弱いかもしれないが、支えてくれる人々が、エヤードにルミがいるのだから。
だが、その彼らを失った時、自分はどうするのか。
そればかりは考えたくもなかった。
そして次の日の夜となる――。