フェル・アルム刻記
§ 第八章 ティアー・ハーン
一.
開けた野原の中、沈黙が辺りを覆っていた。
残された一同は面をあげて、今し方ハーンが飛び去った空を見つめながら、信じがたい出来事を反芻していた。
「何が……何が起きたっていうんだよ……」
当惑を隠しきれず、ルードがぽつりと漏らした。
高原に黒い雲が迫ってきた。そして引き返していった。ハーンの力で?
聖剣ガザ・ルイアート。この刀身中央部に刻まれている紋様が時折煌めき、剣本来の神聖さを醸し出していている。何よりルードが感じ取っているのは、今まで以上の圧倒的な“力”だ。この“力”すらも、ハーンによって発動されたというのか?
聖剣をルードに返したハーンは苦悶しながらも宙に浮かび、そして意識を失い――彼方へ飛び去ってしまった。
ハーンがいなくなった。
はっきりしているのは、それが今の現状だということ。
「ハーン……。何がどうなってるんだ……」
ハーンが飛び去っていった方向を見つめながら、ルードが言った。
「だから、オレがさっき言ったとおりだって」
ディエルはルードに話しかけてきた。ディエルのその視線もまた、未だぼうっと空を見つめたままである。
「なあ、ディエル。君が見たことをもう一度、俺達に話してくれないか? 何がなんなのやら……さっぱりだ」
「……うん」
ディエルは草原に座り込むとようやくルードを見た。そしてディエルはくすりと笑い、何気なくつぶやく。
「しっかし……まさか、あんたがガザ・ルイアートの所持者とはね……。それに、この剣がこんな世界にあるなんて思いもしなかった」
「ちょっと待った!」とルード。
「なんで知ってるんだ、この剣のことを! ハーンから聞いたのか?」
「んにゃ。オレが見ればひとめで分かるぜ。とてつもない“力”を持ってる剣だってな。ガザ・ルイアート。冥王をやっつけたって剣だろう? それくらいは知ってるさ。オレが探していた大きな“力”が、こいつのことだったとはね。(“力”を取るうんぬんは、もうどうでもいいことだな)」
ディエルは首を返し、今度は〈帳〉に言った。
「なあ、エシアルルの兄さん。さらにそっちはアイバーフィンの姉ちゃんっと……。まやかしを使ってるつもりなんだろうけどさ、オレには効かないぜ?」
〈帳〉はぴくりと眉を動かした。よもや自分の術が見破られるとは思いもしなかったのだろう。
「ディエル、と言ったね。君はどうやら普通の人間ではないように私には思えるのだが? どうかな?」
「そうだよ」
ディエルはあっさりと事実を認めた。
「こんなせっぱ詰まった状況でウソ言ったところで仕方ないからね。でもさ。ルード達だって、よほどわけありなふうに見えるぜ? この世界にはバイラルしかいないと思ったら、エシアルルが、しかも白髪のエシアルルがいて、アイバーフィンの姉ちゃんがいて――とどめに聖剣所持者のセルアンディルがいるなんてなぁ」
ディエルは溜息をついた。
「ああ、オレのことを訊いてたんだよね? オレはディエル。トゥファール神の使い。もうひとり、ジルっていう出来の悪い弟がいるけどな。んで、大きな“力”を手に入れてトゥファール様のところに持ち帰るってのが、オレ達の役目ってわけなんだ」
「……なるほど」
〈帳〉はうなずいた。
「アリュゼル神族のひとり、トゥファール。世界がその姿を保つように“力”をもたらしている神だね?」
「ふうん。兄さんよく知ってるねぇ。そうだ、名前は?」
「……〈帳〉」
「〈帳〉……か。それって本名じゃないね? エシアルルの語感じゃないし、彼らの名前ときたら、長い名前ばっかりだからなあ」
ディエルは言った。
「……で、どこまで話したんだっけ? ルード」
ディエルはルードに首を向けた。
「はい?! まだ何も話してもらってない、ですよ。……ハーンが今まで何をしたのかについて」
ルードは、目の前の少年が神の使徒であるという事実を未だ飲み込めず、ぎくしゃくした言葉で答えた。
「そっか」ディエルは言った。
「んじゃあ話そうか。オレもハーンの兄ちゃんの持ってた“力”には、正直びっくりしたんだけどね」
「……オレ達がこの高原の村に着いたのが昨日だった。オレ達は北からやってくる黒い雲から逃げ出してきたんだ。んで、ようやくここに着いて休んで、ふと起きてみたらさ、あの黒い雲がここまで来て、空を覆ってるじゃないか! それだけじゃなくって魔物まで出て来やがった。しようがないからオレはそいつらをやっつけた。ハーン兄ちゃんも一緒になって戦った。兄ちゃんはオレの正体なんか知らなかったから、オレの戦いぶりには驚いてたけどさ。
「そんなことをしてる間に時間ばっかりが経っちゃって、気付いたら“混沌”そのものが高原に来ようってところまでせっぱ詰まっちまった。いくらオレでもあれに……“混沌”に飲まれたらひとたまりもない。そして“混沌”が押し寄せようとしていたその時、ハーン兄ちゃんがひとり駆けだして、村から出ていったんだ。
「最初は村を捨てたのかと思ったよ。でも違った。兄ちゃんは村を守るためにここまで――この野原まで来たんだ。村にまで押し寄せ飲み込もうとしていた黒い雲を、野原へと誘い出したんだ。どんな方法を使ったのか知らないけど、とにかく黒い雲は村から離れ、兄ちゃんのところに集まったんだ。
「オレは兄ちゃんが持っている“力”の大きさを知ってはいたけど、まさか雲を追いやる力を持ってたとは思わなかった。兄ちゃんは一声大きく叫んで、身体にまとわりついてた黒い雲をぜんぶ追っ払ったってわけ。
「雲はあの山の向こうにまで下がったけど、兄ちゃんは“混沌”を少し体内に吸い込んじまった。いくら“力”を持っているとは言っても“混沌”を吸い込んじゃったらただじゃすまない。その結果が……さっき見たとおりのことってわけさ。それでも、なんで聖剣の“力”を発動出来たのかなんていうのはオレには分かんないけど」
「そういうことか……分かった」
〈帳〉は目を閉ざした。
「今し方、私達がハーンと出会った時には、彼は目覚めかけていたのだ。だからこそ、聖剣の“力”を発動し得たのか」
「そういうことって……何がどうなってるのか俺には分かんないですよ。〈帳〉さん?!」
ハーンが何を為したのかということは、ディエルの語った言葉から分かったが、なぜハーンがそれだけのことをやる力があったのか。ルードに分かるはずもなかった。
ふと、ルードの脳裏に〈帳〉の館での生活の記憶が甦った。あれはハーンが館を去る日のこと。ハーンと〈帳〉が、〈帳〉の居室で何やら話していたのだ。詳しい内容については不明だが、ガザ・ルイアートについてのことが語られていたのと、何より〈帳〉がハーンに対し丁寧な口調で接していたのが気がかりだったのだ。
「……〈帳〉さん。一つ、訊いてもいいですか?」
「なんだね」
「あなたは……知っているのでしょう? ハーンのこと。俺とライカがまだ知らない、ハーンの過去のことを」
ルードはまじまじと〈帳〉の顔を見つめた。
ややあって〈帳〉は口を開いた。
「……よく知っているとも。ティアー・ハーン、彼は――」
その時。
衝撃が駆け抜けた。