フェル・アルム刻記
二.
「戻ってきたか」
重々しい声。切り株に腰掛けていた〈帳〉は、渋りきった表情で二人を迎えた。
「〈帳〉さん、ハーンからの返事はありました?」
よっこいせ、と声をかけて、ルードはその横に座り込んだ。
「あった。私の放った術が今し方戻ってきて、ハーンの所在が明らかになったのだ。彼は無事だ。しかし、決していい知らせとは言えないぞ」
「どういうことなんです?」
ルードは身を乗り出して訊いてきた。
「クロンの宿りが“混沌”に飲まれた」
「飲まれたって……なくなったってことですか?!」
「そうだ。いよいよ世界の崩壊がはじまったのだ」
〈帳〉は重々しく語り始めた。
「ハーンは昨日ようやく意識を取り戻したという。しかし、彼のいたクロンの宿りは、すでに“混沌”が押し寄せていた。――ここからでもスティンの山越しにかすかに見えるあの忌まわしき黒い空だ。黒い空は“混沌”そのものを伴って、クロンの宿りをひと飲みにしたという……恐ろしい事態がついにはじまったのだ! 我々はデルネアと対峙すると同時に、“混沌”に対しても向き合わなければならなくなった。……私がこのようなことを言うのは、きわめて恥ずべきことなのだが、我々は一ヶ月もの間、我が館に留まる必要があったのか? せめて、ハーンとともにデルネアのもとを訪れたほうが良かったのではないか? 悔やまれてならないのだ」
「……ハーンはデルネアに会いに行ったんですか?!」
ライカが驚いた。
「左様。今だから言うが、ハーンが旅立った目的とは最終的にはそれが狙いだったのだ。ああ! あの時、彼とともに旅立っていれば、今頃デルネアと対峙出来ていたかもしれないというのに……」
〈帳〉は頭を抱えた。後悔の念と、自らの決断の甘さに苛まれながら。
「……それは……どうなんでしょう?」ライカが口を開いた。
「今〈帳〉さんの言ったとおり、たとえデルネアに会ったとしても……その時にどうすればいいんだか、どうすればアリューザ・ガルドに戻る方法を教えてもらえるのか分からないです。すくなくとも私には分からないんです。そう……今だからこそ、どうすればいいのかっていうのが見えてくるんじゃないでしょうか? それに……世界が混乱してしまってるから、逆にわたし達が疾風を煙に巻けているっていうようにも思います……酷い言い方かもしれないけど」
「……『もしも』っていうのを今考えてもしようがないですよ。ライカも言ったけど、今の俺達だからこそ出来ることっていうの、結構多いと思いますよ」
ルードも続けて言った。
〈帳〉は彼らの顔をじっと見つめていたが、やがて喉の奥から笑いがこぼれてきた。
「ふ、ふふ。なるほど。考えが曇っていたのはこの〈帳〉のほうだったのだな」
「ご、ごめんなさい! 失礼なことを言うつもりじゃなかったんです」
ライカが謝ろうとするのを〈帳〉は制止した。
「そうではない。君達二人は、かつてのアリューザ・ガルドの英雄達に匹敵するような、確固たる考えを持っている。それは素晴らしいことだ。やはり、館で過ごしたひと月という時間が君達を大きく成長させたと思えるな。
「たしかに、ハーンと我々が行動をともにしていたら、おそらく中枢アヴィザノへまっすぐ向かっていただろう。が、その結果がどうあれ、その間にクロンの宿りが“混沌”に飲まれることになるのは避けられなかった。ハーンはひとりで北方に向かい、結果として――ひとにぎりではあるが――クロンの人々を救ったのだ。ハーンは、その時に出来うる限りの最善の選択をしたということか……。
「ともあれ、事態は依然安穏としてはいられないのだ。いや、むしろ危惧すべき状況に陥りつつある。世界が確実に破滅に向かっている今、私達は可能な限り、為すべきことをせねばならないのだ。ハーンがそうしたようにな。……急ごう。まずはマルディリーンの提言どおり、スティンに向かわねばならない。かの方が明言されたのであれば、おそらくはスティンでハーンと会うことによって、何かが変わるのかもしれない……それが何なのか、私のごときでは分からないが」
「マルディリーンに会えたというのも、俺達が〈帳〉の館に留まっていたからじゃないかな、とも思えますよ」
「そうかもしれないな。物事はよいほうに考えるに限る。これは君達から教わったことだ。本に囲まれて過ごしていただけでは、何の解決も見いだせないこともあるのだよ」
〈帳〉にしてはじつに珍しく、にっこりと笑った。
「デルネアの動向はようとして知れないが、恐るべき太古の“混沌”はついに世界を侵しはじめた。しかし、終末を救う鍵となる二つの“力”――聖剣と、もう一つ。その“力”が我々にあると教えてくれたのは、マルディリーンだ」
「鍵、ですか。物事がうまくいくかどうか、それはわたし達次第なのですね?」
とライカ。
「そう。運命の渦中にあるとはいえ、最終的に結果を出すのは大いなる意志でも、神々の力でもない。我々自身なのだ」