フェル・アルム刻記
二.
ドゥ・ルイエ皇が絶対的な力を持つなどというのは幻想に過ぎない。その権限をもってしても、国王の望むがままに物事が進むというわけでは、決してないのだ。
歴代のドゥ・ルイエの中には、そのことが分からない者もいたが、専制の果てに得るものなどたかが知れていた。
サイファは、ルイエとして自身の至らなさを知っていた。本来の意に反して烈火を発動させてしまったのは、その最たるものである。しかし、その至らなさを自覚していることこそ、サイファの強みでもあったのだ。しがらみに縛り付けられることなく、サイファ自身として行動することが出来る。
デルネアの思惑とは?
自分自身がルイエとして、為すべきことはあるのか?
そして、フェル・アルムの行く末はどうなるというのか?
サイファは、旅の果てにそれらの答えを見いだせるような予感を確かに抱きつつ、街道を歩いていた。
汗を拭いつつ「冷たいものが飲みたい」とぼやく“姉”の様子に、黙々と前方を歩く“父”の様子に、サイファは思わず顔をほころばせる。ともすれば不安になりがちなサイファに心強さを与えてくれているのは、彼らにほかならないのだ。
アヴィザノからサラムレへと延びる街道は交通の要所として整備がなされており、こと帝都アヴィザノ付近においては特に念入りである。石畳が隙間なく、奇麗に敷き詰められているのだ。しかし今の季節ともなると、昼下がりの日差しが容赦なく石畳に照りつける。徒歩で移動する者達にとっては酷な夏である。
サイファと肩を並べるようにして歩くルミエールは、興味深そうに景色を眺めている。ルミエールが近衛隊長に着任して六年。アヴィザノ周辺の景色は飽きるほど見ているはずだ。しかし日頃の緊張感からの解放により、ルミエールの気分は開放的になっているようだ。
もうじき街道に沿うようにして、神君を奉ってあるユクツェルノイレ湖が見えてくる。その時の彼女の表情を見てみたいものだ。その美しい景観を前にして、おそらく彼女は諸手をあげて喜ぶに違いないだろうから。
エヤードは前方をひとり歩く。黙して語らないものの、時折ちらちらとサイファ達の様子を窺う。がっしりと筋肉のついたその背中を見ていると、不思議な感覚にとらわれそうになる。頼りになる背中は、まるで――。
旅をしているこの三人は、何と奇妙な取り合わせなのだろうか。そう思ってサイファはふと笑みを浮かべた。道行く商人達も、畑を耕す農夫達も、よもや国王が近衛兵二人を連れて、こんなところを歩いているなど思いもしないだろう。
「サイファったら、何を笑っているの? どこかに面白いものでも見つけたのかしら?」
ルミエールがにこやかに話しかけてきた。王に対する臣下の言葉遣いではない。幼なじみとして、親しい間柄として話しているのだ。言葉の変遷や化け物の出現――南部域が混乱に見舞われている最中、三人の旅の道程は決して容易ではないはずだが、ルミエールの快活さは宮殿で奏でられるタールの音色のごとく、サイファの心の焦りを落ち着かせる。
「なんて言うか……ルミとエヤードを見てると、どこか可笑しくなってしまうんだ。私達はいったい何なんだろうな、と思ってしまうとつい、ね。何しろ、普段の私達では考えられないことを今やっているのだから」
「確かに可笑しいかもしれないわね。……ねえ、父上はどう思いますの?」
ルミエールはエヤードに訊いてみた。
「こういう関係っていうのも新鮮な感じがして、面白いと思わないかしら?」
「え……はぁ」
父上、と呼ばれたエヤードは立ち止まって、煮え切らない言葉を返した。
「はっきりしないな」
サイファがこぼすのを聞いて、エヤードは平謝りした。
「は、申しわけありません。お二方の言われるとおり、たしかに普段では考えられない行動をしております」
エヤードの言葉を聞いた途端、サイファとルミエールは吹き出した。
「堅いな、エヤード……。世間一般に考えてみて、父親が娘に対して、そのような言葉遣いをするものなのか? それこそ可笑しくないだろうか」
自分自身の言葉遣いが普段と変わらないのは棚に上げて、サイファは揶揄した。
「そうだ、私のことを呼んでみてほしいな。父上は私のことを何と呼ぶのかな?」
「あ、だったら私も一緒に呼んでよ、父上!」
二人の娘は父親にそうお願いごとをすると、顔を合わせてくっくと笑い出した。
当のエヤードは困惑した表情を浮かべて二人を交互に見る。今までであれば、かたや君臣の間柄であり、かたやルミエールとも上下の関係が存在しているというのに、いきなり『娘として呼べ』というのも酷なことである。元来の隔たりが大き過ぎるというのに。
「……サイファ様、それに隊長……勘弁してくださいよ」
エヤードは漏らしたが、二人の娘が認めるわけもない。
「勘弁ならないわね。私達は家族として旅をしているのよ。そんなことでは烈火に追いつく前に尻尾が出てしまうわ。さあ、目的遂行のためよ、堪忍なさい!」
言いつつ、ルミエールはサイファに目配せする。サイファは、“姉”の意図するところを感じ取ってうなずいた。
「ならばルイエとして、エヤードに命令を出してしまおうか? ルミと私のことはきちんと名前で呼ぶように、とな。何しろ家族なのだから……宮中での関係というものは、この際さっぱり忘れてほしいんだ」
マズナフ一家として旅をする――それは、アヴィザノを出発した後、道すがらルミエールが案を出したものだった。烈火達を追うというのはまさに隠密行動であり、それが明るみに出るなどは絶対に避けなくてはならないのだ。国王と道中を護る近衛兵という本来の立場は、烈火とデルネアの思惑が知れるまでは隠し通さねばならない。
そのために家族を演じる。父親役がエヤード、姉がルミエールで、妹がサイファ。
いささかの戸惑いはあるものの、いずれ慣れることだろう。
何より――心地よいのだ。本来の目的のために、家族というものを演じているに過ぎないはずなのだが、しばしば本当の家族であるかのような錯覚さえサイファはおぼえた。
「分かったよ、ルミにサイファ。お父さんについてきなさい!」
エヤードはそこまで言うと文字どおり顔を真っ赤に染め、くるりと向き直るとぎこちなく歩き出した。
「父上……照れ屋なのね」
父の背中を見ながら、二人の娘は再び吹き出した。
三人には、家族と呼べるものがいない。
サイファは六年前に父王をなくし、母親は――サイファが物心つく前に亡くなっていた。
ルミエールも同様。代々優れた騎士を輩出しているアノウ家は、ドゥ・ルイエと血が繋がっている。しかし、今やアノウ家は、ルミエールひとりとなってしまっている。十三年前、アヴィザノで起きた悲劇のために。術の力に覚醒した者達が、自らの魔力を制御しきれずに暴走させてしまった結果、アヴィザノ市街の一部は破壊されてしまった。その際に、ルミエールは幼くして両親を失っているのだ。
エヤード・マズナフはかつて、フェル・アルム各地を巡り歩く戦士だった。剣士の名声を高めていき、ついに近衛兵に抜擢されたのだ。ドゥ・ルイエを護るという名誉ある職務。だが天涯孤独の寂しさは、けっして拭い去ることが出来ない。