フェル・アルム刻記
「……今、御身がドゥ・ルイエ皇としてではなく、サイファ様として私に話しているように、私も執政官としての立場を置いてお話をしたく存じますが、よろしいですか?」
サイファはうなずいた。
「では申し上げますが……私もサイファ様とほぼ同じ考えを持っています。フェル・アルムの行く先も心配ですが、今は烈火の動向が恐ろしい。陛下に絶対忠誠を誓っている彼らとはいえ、何をしでかすか正直分かりませんし――」
リセロは声を落として言った。
「あのデルネア将軍……どうも信頼を置きかねます。何か裏があるような気がしてならないのです。……ですから、サイファ様には彼の真意をなんとしても見届けて頂きたい」
「ありがとうリセロ。私が旅立つのを理解してくれて嬉しく思う」
サイファは立ち上がり、彼の手を握り締めた。
「まあ、執政官としては、頑として反対なのですがね」
リセロはやや照れながら言った。
「それはさておき、あなただけで旅立たれるのはどうかと思います。今回は散策というよりは旅……いや、冒険ともいえる行いなのですから、女性ひとりというのは危険過ぎます。フェル・アルムが混乱している今、どんな危険に巻き込まれても不思議ではありません」
「ひとりでは駄目だと?」
「はい。すみませんが、承諾いただかない限りは、私は家臣としての私に戻って、あなたの行動に反対しなければならないでしょう」
「なら……」
サイファは何か言いたげにルミエールを見つめた。
「まさか……、私が?」
「そう。一緒に来て欲しい。これは君命だ」
「ずるいわよ。こんな時に立場をちらつかせて。近衛兵としてあなたを護る身としては、従うしかなくなるじゃないの」
口を尖らせて抗議するルミエール。だが、本心からではないのは明らかだ。
「リセロ。これで問題ないだろう?」
「……確かにアノウ殿の剣技は宮中でも指折りですから、御身の護りとしては最適でしょう。しかし、若い女性二人だけで国を旅するというのは、奇異の目で捉えられがちと思いますし……その……何かと危険が伴いましょう?」
「だったら、わが隊のマズナフを加えましょう」
とルミエール。
「エヤード・マズナフ殿ですか。サラムレの剣技大会優勝者の彼が加われば、サイファ様の護り役としては申し分ない」
「それもありますが……私達とは、親子ほどの年齢の開きがありますから彼を、と考えたのです。彼が父親役を演じてくれるのなら、家族で旅をしているだの、家を失って放浪中だの、色々言いわけが出来ますよ。まあ、国王と近衛兵が旅をするなんて、人は想像だにしないでしょうけど」
そう言ってルミエールはころころと笑った。サイファもつられて笑みがこぼれる。
「では、明朝の前二刻、北の城壁の尖塔あたりで落ち合おう。マズナフにも言っておいてほしい」
「分かったわ」とルミエール。
「エヤードも、いきなりこんなこと聞かされてびっくりするでしょうけど、元来は旅が好きな人ですから、きっと快く承諾してくれると思うわ」
君命だしね、そう付け加えてルミエールはサイファに目配せした。
「ルミ、ありがとう」
二人の心遣いに心動かされるものがあったのか、その声はやや震えていた。
「リセロ。迷惑をかけるな。……やはり私は国王として失格なのかもしれない……。しかし、こうしなければ後悔するに違いないのだ。だから……」
「おっしゃられるな、陛下」
激するサイファの言葉を遮り、リセロは優しく言った。その言葉は深くサイファの心に刻まれ、サイファが後に回顧するたびに励みとなるものだった。
「やはりあなたの行いこそ、ドゥ・ルイエ皇として真に相応しいものであります」
* * *
翌朝。サイファ一行はアヴィザノを後にし、烈火の足跡を追うことになった。
ユクツェルノイレ湖を左手に見ながらサラムレへ、そしてスティンへ。そのようにデルネアと烈火は向かうだろう。広大な平原を北に伸びる街道を見つめていると、烈火の進軍から一日経ているというのに、舞い上げる埃の中、真紅の一団が行軍する様子が目に見えるようであった。満悦したデルネアの顔すら浮かんできた。
サイファはそのまま目を上方に向ける。禍々しい黒い空が青空を確実に侵略しつつある。
(あの黒い空の中に何があるというのだろう?)
そう思いつつ、サイファは胸元の珠《たま》を握った。ジルから貰った珠の周りに装飾をつけ、胸飾りとしたのだ。
出立の前に一言ジルに言い残そうとも思ったが、やめておいた。ジルがいれば、自分はすっかり頼りきってしまうだろうから。彼を頼るのは、いよいよ押し迫った時でよい。それまでは自分達の力だけで切り開いていきたいのだ。
「さあ、エヤード、ルミ、行こう!」
サイファの一声にエヤード・マズナフとルミエール・アノウはうなずき、街道を歩き始めた。これは烈火がアヴィザノを離れ、北部クロンの宿りを絶望が覆いつくした翌日の朝のことであった。