フェル・アルム刻記
三.
夕方近くになり、ようやくライカが目を覚まし、ついでルードがむくりと起き上がった。〈帳〉はルードとともに酒場に向かうことにしたのだが、ライカもついてくると言いだした。
「だがライカ。君はここにいたほうがいいのではないか? 言葉が分からないだろうし、ちと物騒だぞ、夜の酒場というのは?」
「分かってます……でも……」
「でも?」ルードが聞き返す。
「でも……」
ライカは目を泳がせて、どのような言葉を言うべきかしばし考えた。
「ルード。まさかわたしを置いて、おいしいものを食べに行こうっていうんじゃないでしょうね? なんと言ってもついてくわよ!」
それが空元気であることを、ライカ自身は分かっていた。
この街に来てからの彼女を苛んでいる疎外感。自分の知らない言葉がまかり通っているというのは、なんと心細いことなのだろうか。ふと、今朝方見た夢の一片が頭をよぎった。これからを暗示させるような暗い夢。彼女達に待ち受けている過酷な使命が、夢のかたちをとったのだろうか? いずれにせよ彼女の胸中のみにしまい込むには大き過ぎる。そんなつらさを隠すためにライカは笑うのだ。その笑いに隠された感情を、ルードは分かってくれるのだろうか?
(そんなの、わがままで勝手な希望だわ)
冷静に見つめる、心の中のもうひとりの自分が囁いた。
「俺に振るのかよ? 〈帳〉さん、どうする?」
ルードはちらと〈帳〉を見、そしてライカを見る。ライカは腕組みをしたまま、ルードの回答を待っているようだった。
「むぅ……」
「どうなのよ?」
「まあ俺は……いいと思うけどさ」
「じゃあ、決定ね! さ、行きましょ! いいでしょ、〈帳〉さん?」
ルードの言葉が終わらないうちに、ライカは彼の腕をとってそそくさと歩き始めた。
「やれやれ、困ったお嬢さんだ……」
〈帳〉は苦笑すると、二人の後をついていった。
ライカはまるで上機嫌のようで、しきりにルードに笑いかける。そんな彼女につられてルードも笑い返すのだった。
(ライカどうしたんだろ? 妙に明るいな?)
ルードは、どこか心に引っかかる感じを持ちながらも、ライカの快活さを前にして違和感は隠れ去った。
(ま、明るいことはいいことだし……。俺も楽しくなるからいいか)
忙しげに行き交う人の間をくぐりながら、一行は〈雪解けの濁流〉を目指した。ふだん山村で暮らしているルードにとって街の雰囲気は珍しいもので、彼はひっきりなしに周囲を見渡していた。
ふと、ルードは奇妙な雰囲気を感じた。見ると、道ばたに座り込んでいる痩せこけた男が焦点の合わない虚ろな眼差しで、そこかしこに目を向けていた。
「ふん、だから言ったじゃねえか、あの野郎、俺の言ってることに……」
男の言葉は完全に常軌を逸していた。誰に言うでもなく意味のないひとり言を繰り返す男を横目に、ルードは道を急いだ。
「あれってアズニール語じゃないの?」
(そうだ! あの口調はアズニール語。俺達しか話せないと思ってたのに、一体いつからこんな風になっちゃったんだ?)
ルードはそう思いつつ、酒場の扉をくぐった。
いくつもの円卓が並ぶ店内はすでに旅商達がおり、それぞれの会話に花を咲かせていた。大声で笑い話をする者、稼ぎの話をする者、にやつきながら下世話な話をする者――十人十色である。ざわめく彼らをちらちら見ながらルード達も席に腰掛け、飲み物を注文した。
[……だけどな、南のほうがとんでもないことになってるってのは本当だぜ?]
隣卓の椅子に腰掛けている若い商人の言葉に、ルードと〈帳〉は反応して耳を傾ける。
[大昔の言葉っていうやつをだな、南の連中がしゃべり出したのよ。嫌なことにそれが物忌みの日に起きやがったんだ]
[ジェリスよう、なんなんだよ、その大昔の言葉ってのは?]
向かいの席に腰掛けている長髪の男が言った。
[学者さんに言わせれば、だ。なんでも神君がフェル・アルムを統一なさる前、世界で使われていた言葉らしいぜ。それが今になって中枢をはじめ、南部全域に広がっちまったんだ。ダナール、信じられないかもしれないけどほんとなんだ]
ジェリスという商人は言った。
[そんなのが自分のあずかり知らないうちにしゃべれるようになってみろ。おかしくなる奴が出ても仕方ないだろう?]
[若いの、それなら俺も聞いたことがある]
それまで向かいの席に座っていた口ひげを蓄えた男が、酒を片手にジェリス達に近づいてきた。
[俺はイルーレ。オルファンからやって来たんだが、なんせ、俺自身その言葉を話せるようになっちまってるしな]
[で、イルーレさん、どんなふうなんだ、あっちはさ?]
酒をつがれたジェリス達は、思わず身を乗り出す。
「混乱しきっている」
ルードには、アズニール語でしゃべる男の声が聞こえた。
[あん?]長髪のダナールが聞き返す。
[〈混乱しきっている〉って言ったんだ。大昔の言葉ってやつではな!]
イルーレは笑って言った。だが、その顔は急に険しくなる。
[だが今の世の中、笑いごとじゃあすまなくなってきている。言葉もそうだが、オルファンのラーリ山で炭坑夫が化け物に殺されたり、アヴィザノの近くで化け物が八つ裂きになっていたり……ここんとこ常軌を逸する出来事ばかり立て続けに起きている。さらにだ……]
[興味深いお話ですね]
いつの間にか〈帳〉が彼らの横に立っていた。
[出来れば私にも聞かせていただけないだろうか?]
[兄さんは芸人かい?]と、ダナール。
[だったらなんか一つみせて欲しいもんだな。そうすればとっておきを教えてやるよ]
イルーレが言った。
[なら……]
〈帳〉はあごに手をやり、少々考えるふしをみせた。まるで何かを探っているように周囲を窺いつつ。
[では、これなどいかがですか?]
彼はおもむろに、手近にあった空のグラスを取り、ナプキンを一枚入れるとぱちん、と指を鳴らした。すると、もぞもぞとナプキンの中で何かが動き始め、〈帳〉がナプキンを取るや一羽の小鳥が現れた。商人達は一様に感嘆の声をあげる。
〈帳〉が手にしたグラスを揺らすと、小鳥は飛び立ち酒場の中を二、三周軽やかに飛んで回ったあと、もとのグラスに収まった。〈帳〉がナプキンをかけ、指を鳴らしてナプキンを取ると、グラスはもとの空のグラスに戻っていた。
酒場の中はどっとどよめき、拍手やら口笛やら、〈帳〉に対する賛辞が送られた。
[兄ちゃんやるな! 手品師なのかい?]
ダナールは〈帳〉の肩を叩いて、自分の隣に座らせた。酒場にいたほかの商人達も彼らを囲むようになった。
「ねえ、ルード」
完全に輪から外れる格好となったルードとライカ。商人達と〈帳〉を横目で見ながら隅のほうでちびちびと飲んでいたのだが、やがてライカが小声で尋ねてきた。
「あの人達、なんて言ってるの?」
「ざわざわしていてよく聞き取れないな。みんなそれぞれ、言いたいことを言ってるみたいだ。あとで〈帳〉さんから訊くしかないかな?」
「ルードもあの人達にまじって聞いてくればいいじゃない?」
「……そういうわけにもいかないだろ」
言いつつルードは生ぬるい酒を飲み干した。
「なんで?」
「さぁてね、どうしてだろうね?」