歴詩 集
少々の解説を
秀吉は亡くなる半年前に、醍醐寺で一世一代の桜蘭園遊会を開催しました。
その時、秀吉の胸に去来したものは何なのか、それを詩にしてみました。
時は慶長三年三月十五日(1598年4月20日)、朝鮮出兵が泥沼化していました。
そんな折、六一歳と老いた天下人、豊臣秀吉は豊臣秀頼、北政所(五一歳)、淀殿(二九歳)らの近親者、そして側室の松の丸殿、信長の六女の三の丸殿、前田利家の三女の加賀殿(摩阿姫)、他に利家正室まつ、女房衆千三百人を引き連れて盛大に醍醐の花見を催しました。
三度の衣替えで着飾った女房衆、仮装行列があったりで、それはそれは華やかなものだったそうです。
しかし、ちょっとした揉め事が起こりました。
宴もたけなわ、秀吉の杯を受けるのですが、もちろん一番は古女房の北政所(ねね)、これには誰も文句を言えません。そして、秀吉は二番手として淀殿(茶々)に杯を渡そうとしました。
しかし、これに松の丸殿から「待った! 私が二番手よ」と声が上がったのです。
松の丸殿は武田元明の正室、京極龍子です。淀殿は秀頼の母ではありましたが、当時の家の格からすれば京極家の方が上。
秀吉の面前で、一触即発の女の戦いが……。年老いた秀吉はただオロオロとするばかり。
そこに「あなたたち、いい加減にしなさい」と割って入ったのが前田利家の妻、まつでした。
こんな成り行きを若い摩阿姫(二六歳)は冷ややかに見ていました。そして、詠った歌は……。
あかず見む 幾春ごとに 咲きそふる 深雪の山の 花のさかりを
この歌の裏の意味は
「もうやってられないわ、私帰りたい。また違う誰かと、そう、好きな男と醍醐の花見に出直して来るからね」ということだそうです。
その証拠に、摩阿姫はこの花見の後に、すぐに側室を辞意してしまったのです。
秀吉、天下は取ったが、どうも女性には手こずっていたようです。
こんなエピソードもあった醍醐の花見、秀吉は桜花爛漫、花舞う下で何を思ったのでしょうか?
それはこんなことではなかったろうかと、詩にしてみました。
また、紹介にと「You Tube」にUPしてみました。
URLは次です。
http://www.youtube.com/watch?v=98svPisSQZ4
ご参考に。