ミルフィーユ
男は戸惑っていた。目の前に喫茶店があるのだ。珈琲の匂いに鼻はひくつき、「当店オススメ、ミルフィーユ」の文字は様々な装飾の施された堪らなく美味なものを想像させた。今までの人生で経験したことのない程の空腹を覚えた。
そこで、はてと。……今までの人生?
男の口から小さな声がこぼれた。見られたくないデータが大量にある、自分の汚い部屋の中のパソコンを思い出し、膝から力が抜けた。
漠然とした死が圧し掛かってきた。もう一度小さな声が出た。
からから音を立てそうな膝をどうにか動かし、喫茶店のドアを開けた。ベルの音はまさにからからと形容すべきものだった。
「いらっしゃいませ、お客さま。わたくし、あなたをお待ちしておりましたの」
声のする方を見上げると、膝下まであるスカートのメイド服を着た少女が居た。
「お客さま、お客さま。飯塚義彦さまですね。こちらのお席へどうぞ。説明は珈琲を飲みながら。たしか、お砂糖はナシでミルクをひとつがお好みなのですわよね」
「どうして……は、え、なんで」
男はとても驚いた。正解だった。
「あなたをずっと見ていたからですわ」
少女は一旦厨房へ引き返ていった。
店内には、ひとりこどもが居た。こどもはオレンジと思しきジュースを飲んでいた。この若さで……この喫茶店がどういう場所であるか察した男は心中で少し悔みを述べた。
暫くするとまた戻ってきた。手にはトレイ。その上には珈琲。
「珈琲は誰にでも分け隔てなくサービスしておりますのよ。ご注文は、ミルフィーユでよろしいですわよね? だってウチ、これしかありませんもの。この珈琲は餞別のようなものですの。味わって飲んでくださいな」
少女は楽しそうに歌うように言った。男は驚きつつも珈琲を啜り、一言美味いと呟いた。それから男の曇り顔は瞬く間に晴れ、にこにこと笑いだした。更に更にと啜ってゆき、カップの中は瞬く間に空になった。
「美味い、美味い、これは美味い! これを飲むために死んだっていい!」
「馬鹿ね、あなたもう死んでるんですのよ」
少女の笑みは更に深まり無邪気に楽しそうに言った。
「ほんとうに馬鹿ですわ。全部飲んじゃったら、おクチ直しが出来ないじゃない。いいわいいわ、お客さまのミルフィーユはとてもとても」
言葉にならぬ言葉を何事か囁いた後、少女は隠すことも無く高笑いし、厨房へと消えた。