「舞台裏の仲間たち」 36~37
「杜江」という文字は、
碌山が書簡のサインにたびたび用いていたことに因んでいます。
そして、水を汲みあげる柱の部分にも十字架文様の木彫がこれもまた、
さりげなく施されています。
喉を潤してから上を見上げると、屋根の上にいるフエニックス(不死鳥)が
目に飛び込んできます。
30歳の若さで早逝した碌山の遺した作品の傑出した魅力を
象徴するかのように、安曇野の空に羽ばたいています。
木漏れ日に目を細め眩しそうに見上げたあとに
木蔭のベンチの腰を降ろした茜が、散策中のレイコを手招きをしています。
「私も、10年以上も前から石川さんが大好きだった。
過去形だけど、決して忘れたり諦めたわけではなかったし、
あこがれとして、つい最近までずう~とその気持ちはあたためていたの。
でもお互いに、現実には全く別々の10年間を過ごしたわ。
劇団の解散以来、音信不通のままの10年間になった。
・・・・あ、でも誤解をしないでね。
ただの片思いだったのよ、私だけの。
あの頃の石川さんは、姉のちづるばかりを見ていたのし、
時絵さんだって、とてもチャーミングだった。
私なんか、たぶん眼中になんか無かったわ。
みんなに比べたら、あたしはそばかすだらけのチビだったし、
華やかでもなかったし、引っ込み思案だったもの。
いつだって、姉の背中に隠れていたわ。」
レイコも同じように葉裏に輝く木漏れ日を見上げます。
同じように目を細めてから、茜の隣へ腰を下ろします。
気持ちの良い安曇野の初夏の風が、髪を揺らして二人の間を吹きぬけて行きます。
「わたしは普通に看護婦さんになっって
普通に病院勤務を始めたわ。
劇団が解散をして、姉が突然、座長さんと結婚をして日立へ引っ越したわ。
そこまではあっという間の、急展開の日々だったけれど、
その後はありきたりで、
まったく平凡な毎日が何年も続いたわ。
昼勤務と夜勤が繰り返されるだけの仕事の日々で、
後はまったくもって単調だった。
5年前には実家を出て、アパートを借りたの。
26の時だったかなぁ・・・・
入院中だった男にナンパされて、なんとなく付き合いが始まり
たいした感激や感動もないままに、
私のアパートでの半分だけの同棲生活が始まった。
お互いに拘束をしないと言う約束で、中途半端な付き合い方だった。
3年近くも続いたのかしら、そんな都合のよいつき合い方が。
たまたま避妊を怠った時に、妊娠をしてしまったわ。
彼に告げたら、籍を入れようという話になり、
私も安心をしていたらその1月後に、
もらったばかりのボーナスを全部持って、男がどこかに消えちゃった。
後で聞いた話では、水商売の愛人というのがもう一人いて
ヒモ同然の生活をしていたんだって、そいつったら。
そこの彼女のところからも、あるだけの現金を持ったまま
姿をくらませてしまったの・・・
本当のことには何ひとつ気がつかないままに、
そんな男にふりまわされていたのよ、私は。
でも、自分でも情けないとは思うけど、
そんな男でも、私の身体はその男を、愛していたんだよ、
最悪だったなぁ、あの頃は」
レイコのまっすぐな視線が
長いまつ毛が揺れている、茜の横顔をしっかりと見つめています。
膝の上で重ねてられている茜の細くしなやかな指の上に、
レイコがそっと自分の手のひらを置きました。
作品名:「舞台裏の仲間たち」 36~37 作家名:落合順平