おぼろげに輝く
12
翌日曽根ちゃんは、自宅で仕事をすると言っていたので、すぐに携帯に出られるだろうと思い、電話をかけた。俺は完全フリーランスだし、曽根ちゃんもフリーに近い状態の仕事だから、いつ電話をかけても大抵電話に出るのだが、この日に限って電話に出ない。トイレか? と余計な事を勘ぐって、少し間を空けてから電話をするが、応答がない。おかしい。
嫌な予感と言う物は的中する。幾度となく当てている。俺はすぐにパソコンをスリープさせて、上着を引っ掴むと駅に急いだ。
神様は何故、人間に「胸騒ぎ」なんていう機能をつけたんだ。これで何もなかったら怒るぞ。
そんなどうしようもない事を考えて気を紛らわせないといけないぐらい、悪い事ばかりが頭に思い浮かんだ。もしかすると、いや、きっと、間違いなく富樫がそこにいる。もしくはそこにいた。
電車がいちいち停車している時間がもどかしく、経費扱いでタクシーにでも乗るんだったかと後悔する。上谷戸の駅に到着した電車から一目散に曽根ちゃんのアパートに向かった。
息を切らせて走っていると、目の前から近づいてくる背の高い影があった。あれは富樫だ。向こうもこちらに気付き、露骨に顔を強ばらせている。
「どうも」
俺は足を止めて声をかけるが、富樫は更に顔を固くするばかりで何も言わず、持っていたスケボーを転がしたと思うとひょいと飛び乗り、去って行った。見た目は年上だがやる事は子供じみているなぁとふと思う。やはり曽根ちゃんの家にいたのだろうか。方角からして間違いない。また走り出す。
アパートに到着し、インターフォンを押した。あいつがいなくなった後だから、きっとぼろぼろの格好で出てくるのだろうと思っていたが、足音一つしない。再度インターフォンを押し、出て来ないのでドアノブに手を掛けた。軽く捻るだけで回るドアノブを手前に引く。
エアコンの暖か過ぎる風に乗って、嗅ぎ慣れない異質な空気がただよってきた事に気付き、俺は急いでブーツを脱ぎ捨て部屋に入った。
おかしな臭いだとは思ったんだ。俺の鼻に狂いはなかった。倒れている彼女を目にするとすぐに携帯で救急車を呼んだ。
「女性です。息はしてないように見えますけど分かんないです。住所はちょっと分かんないんですけど、上谷戸駅の西口側のコンビニを曲がったところにあるアパートです。二階です。表札は出てないですけど、救急車が近づいてきたら俺、外出ますから。はい。あの俺にできる事は? 分かりました」
全裸で、脇腹の辺りから携帯用のナイフを生やして、鉄の臭いがする鮮血を垂れ流す彼女に、俺は押し入れから毛布を持って来て掛けてやる。フローリングに横たわった背中には、黄色く消えかかっている痕を上書きするように、赤い痕が残っている。脈があるかどうかなんて、素人の俺に分かる訳もない。
その場に座り込み、彼女の手を握る。氷のように冷たい。力のないその手を握ったまま、首に触れてみる。こちらはまだ人間らしい暖かさを保っていて少し、安堵する。が、これからどんどん冷えて行くとしたら......たらればの話なんてしたって意味がない。とにかく冷たい彼女の手を握り、眠るように目を閉じているその目頭に貯まった涙を、人差し指ですくうように拭ってやる。
傍らに、ネックレスが中途半端なところから千切れて転がっていた。俺と曽根ちゃんが作ったヘッドが、ヘタクソに書いたS字みたいな形に転がるチェーンの真ん中あたりに横たわっている。すっとヘッドだけを抜き取り、ポケットに仕舞った。
遠くから救急車が近づいてきたので俺は彼女の手を離し外に出て、コンビニのあたりで救急車に手を振った。
「脈、弱いです。搬送先探して」
救急隊は三人で、連携して作業をしている。俺はなす術もなく、キッチンに凭れたままそれを見ていた。部屋の中に運ばれてきた担架に、全裸の彼女が乗せられ、上から毛布が掛けられる。
「お兄さんはご家族?」
「いや、交際相手、です」
「刺したのは?」
「俺じゃないです」
俺はぶんぶんと手と首を振った。
「救急車、同乗する? てゆうかこの部屋の鍵とか、分かるかなぁ」
鍵は、いつも曽根ちゃんが玄関の靴箱の上に置いていたので知っていた。それを取りに歩き出すと、救急隊員は俺が同乗する意思があるとみたようで「急ごう」と言って走り出した。
まるでドラマみたいだ。俺は救急搬送口から病院に入り、処置室の外にある黒いベンチに腰掛けて、誰かに話しかけられるのを待っていた。医者でも看護師でも、救急隊でもいい、誰でもいいから曽根ちゃんの状態を俺に教えて欲しかった。頭を抱えたり、貧乏揺すりをしたり、ジャンプをしたり、とにかく何か気が紛れるような事をするのだが、何も紛れやしない。紛れる訳もない。目の前で命が失われようとしていたかも知れないのだ、何もできなかった自分を一生責める事になるかも知れない。
向こうからスーツ姿の男性が二人、こちらに向かって歩いてきた。俺の方を見ているのが分かる。医者ではなさそうだ。
「曽根山さんが倒れてるのを発見したのは、あなたですか?」
刑事か、そう直感すると、胸ポケットから、ドラマみたいに警察手帳を見せられた。縦にパカッと開いた警察手帳にちらりと目をやり、刑事の名前も何も確認する暇なんてないんだなと、頭の片隅で考える。
「そうです。太田です。太田塁」
俺の身分を聞かれ、全て答え、発見時の状況も全て話した。話そうかどうか迷ったが、彼女の為を思って富樫充の話をした。
「日頃から暴力を振るわれてました。それは知ってます。でも富樫があの近くを歩いてたってだけで、刺したかどうかは分かりません」
刑事は小さなメモ帳に俺が言う事を記入し「分かりました。ありがとう。また何かあったら君の携帯に電話させてもらうから」と言って携帯番号を訊いた。
「あの、今の彼女の状態とかは、教えてもらえないんですか?」
立ち去ろうとする刑事に縋るように手を伸ばし、言った。
「まだ処置をしてるみたいだから。意識はないらしい。処置が終わったら君のところに看護師か誰か来ると思うよ。彼女の実家にはさっき連絡が取れたから、ご両親がこちらに向かってる。君、会った事は?」
俺はかぶりを振る。
「そうか。まぁとにかく、何かあったらまた話を聞かせてください」
そう言うと二人は同時に歩き出し、目の前から消えた。処置室から、機械音と人が動く足音や話し声が聞こえる。その中に曽根ちゃんが動く音が混ざっている事を祈りつつ、俺は目を閉じていた。
「曽根山さんのご家族の方ですか?」
水色の術着を着ている男性は医者と思われた。
「家族ではないです。発見者です。あの、彼氏です」
あぁ、と言って「こちらに」と仕切りのある部屋に通された。
「警察の方はご両親がくるまでに時間がかかると言っていたから、とりあえずあなたに報告しておきます」
俺は黙って頷いた。暖房が入っているはずの院内なのに、やけにひんやりした空気に辟易する。
「彼女は、一命は取り留めた、と言っていいと思います。ただ出血量が多かったものでね、発見者なら分かってるだろうけど。今、輸血をしている状態です。暫く意識は戻らないかも知れない」