「舞台裏の仲間たち」 30~31
「さすがだわね、順平。
いわさきちひろの素晴らしさを
最初から見抜くなんて、あんたも只者じゃないな。」
「馬鹿なことを言うな。
俺なんかとは、はるかに次元が違う。
こういう人のことを、世間では天才と呼ぶんだろうな。」
「ちひろは天才ではなく、努力の人だと思う。
絵が上手で大好きだった少女だったけど、生きて行くために
一度は書の道を選んだくらいだもの、
絵本作家としてのデビューは遅くて、たぶん40歳を過ぎたころだったと思う。
その最後の作品は書きあげたのは、55歳の時で、
少し、早すぎる生涯だったみたい。」
「詳しいね、レイコは。
へぇ~、最初から絵本を書いたというわけでは無かったんだ。
しかし、このにじみやぼかしを多用した技法は確かに凄い。
そうか墨絵や書の応用か・・・
それにしても、これは完成された独自の美の世界だね。
この、いわさきちひろの世界って。」
「ほらほら、
目の色が変わってきた。
ちひろに興味が湧いてきたんでしょう、
順平の顔に、ちゃんと書いてある。」
じゃあ、こうしましょうとレイコが腰を浮かせます。
順平から絵本を取り上げると、頭を持ち上げてそこへ自分の膝を滑り込ませます。
ちょうどレイコに膝枕をされるような形になります。
「あら、いいわねぇ・・・
石川さん。
順平君がレイコさんに膝枕なんかされているわ、
こらこら、運転中のあなたはよそ見なんかしないで頂戴。
大丈夫、今夜ゆっくりしてあげるから、
ねぇ、あなた。」
レイコが苦笑しています。
すこし体制を変えて、前方をむくように身体を入れ替えたレイコが、
順平の顔の前にまた絵本をひろげました。
「これなら、長い時間でも大丈夫でしょう。
気のきくお嫁さんに、感謝して頂戴。
え?巻頭の文章と、巻末の後書きが気になるから先に読ませろ・・・
順平ったら、少しは人の話を聞いている?。」
順平はすでに、目も神経も巻頭の文章にクギづけのままです。
「ベトナムの本を続けてやるのも、
私はあせって、いましなければベトナムの人は、
あの子どもたちはみんないなくなっちゃうんじゃないかと思って・・・。
そうすると一日も早くこの絵を書き上げないと・・・。」
と語ったちひろは、前作の『母さんはおるす』の完成後、
すぐに、この絵本の制作にとりかかっています。
日本にある米軍基地から、ベトナムの子どもの頭上に
日々爆撃機が飛び立ってゆく現実に心を痛めたちひろは、ベトナムの
子どもたちに思いをはせながら、自らが体験した
第二次世界大戦と重ね合わせて、この絵本を描きあげています。
絵本の最後に、ちひろはこう記しています。
「戦場にいかなくても、
戦火のなかでこどもたちがどうしているのか、
どうなってしまうのかよくわかるのです。
こどもは、そのあどけないひとみやくちびるやその心までが、
世界じゅうみんなおんなじだからなんです。」
「レイコ、ちひろは反戦活動家かい?。」
「ちひろさんは、日本共産党の党員でした。
旦那さんも同じ党員で弁護士さんにもなった松本善明さん。
8歳違いのおしどり夫婦です。
ちなみに、ちひろさんが結婚したのは、31歳のとき。
私たちもうかうかはできませんねぇ・・・
ねぇ、順平。」
「ちなみにその時、善明さんは23歳だったんだぜ。
ちひろさんが絵を描いて、弁護士になる善明さんを支えたって書いてある。
内助の功ってやつかな・・・。」
「つまんないことだけは良く知っているわね。
そうなんだけど、でもどこでそんな細かい情報まで仕入れてきたの。
たいしたものね。」
「そうでもないぜ、レイコが
ちひろ美術館用に用意したパンフレットに、ちゃんと書いてあるぜ。
ほら、おまえのポケットに入っていたぞ、こいつ。
それにしてもお前、良い匂いがするなぁ。」
「知らないっ、ば~か。」
車は信州を目指して、さらに順調に走り続けていきます。
(32)へつづく
作品名:「舞台裏の仲間たち」 30~31 作家名:落合順平