短編集 1
幽霊桜
私の家の近くには、とある噂の桜の木がある。その桜は、こう呼ばれている。
『幽霊桜』
と。
美しい桜の下には遺体が埋まっていると、よく聞く。それが真実であったなら大問題なのだから、本来は気にすることのないある種の都市伝説のはずなのだけど。この桜がこう呼ばれるのには、もちろん理由がある。この桜の根元から、遺体が発見されたのだ。これは、私の生まれる前の話なのだが今でもずっとそう呼ばれていて、気味悪がって近付く人はいない。だから、好んで近付く私はよく変な目で見られる。
こんな大きくて綺麗な桜の下で眠れた、その遺体が少しだけ羨ましくも思えた。こころなしか、薄い紫色に染まっているこの桜のずっと昔から付けられていた元の名前は『恋(れん)叶樹(のうじゅ)』。この桜の元で結ばれた男女は、途絶えることのない愛を約束される。昔ながらに、美しい言い伝えだと思う。夜になると、家を出ては寝る寸前までこの桜の木の近くにいる。幼稚園から、ずっとそうだった。いつもこの桜の木の魅力に惹かれていた。
幼い頃に、この木の下で一度だけ会った、男の子を覚えている。顔や名前は、もうわからないけど、淡く薄い赤の着物を着ていたことは確かに覚えている。私と同じで小さいのに着物を着ているなんて格好良いなって感じたから。私にとってそれは最初の恋で、最後の初恋。それもあって、この桜には愛着を持っているのかもしれない。自分のことなのに、本当の気持ちがわからない、なんて。
今日、この日もいつもどおり桜の元へ来た。昔は樹に登ったりもしたけれど、さすがに高校生になってまで登りはしない。登りたい気持ちは、あるけどね。
ただ、この日違ったのは、近くの三つほどある街灯が全て点滅していること。いつもこの時間帯に挨拶をする犬の散歩をしているおばさんに会わないこと。光を反射している月が、隠れていること。そのせいか、少しだけ心細くなる。肩をとんとん、と優しくたたかれた。びくっと、思わず肩が震えて、後ろを振り向くと。
そこには美しい藍色の髪をして、紫と暗い桃色の瞳をした同い年くらいの男の子が立っていた。ふんわりと笑っているその姿は、幼い頃の記憶を呼び起こすようで。月が雲からやっとのことで抜け出して、彼を照らす。いつも思う、彼はどうして着物の姿なのかなと。
可愛らしい、というより綺麗な顔立ちをしているこの人とは、前述の通りこの桜の木の下でしか会ったことがなくて、それ以外の場所でも会ったことはない。
嬉しそうに笑いかけてくれる彼は、やっぱり淡く薄い赤の着物を着ていて、草履を履いている。私も、彼にほほえみかける。どうしてか、感動の再会。というほど大袈裟ではない気がしていた。いつも傍にいる、でも会えずにいた。そんな感じがしていて。
「久しぶりですね、僕のこと、覚えてますか?」
「…もちろん。名前は、忘れちゃったけどね、ごめん」
「いいえ、僕も貴女の名前を忘れてしまったので、お互い様ですよ」
そう言って悪戯っぽく口に人差し指を当てて、まるで内緒話でもするように言った。私もそれを聞いて、小さく笑った。幼い頃から一度も話していなかったのだから、当然と言えば当然なのだろうな、と思ったから、腹も立たなかったし不快に思うことも全くなかった。とても綺麗な手をしている。
「僕は乃威です、五木乃威」
「私は、笹岡歌織です。改めて久しぶり、乃威くん」
「えぇ、本当に。元気にしてましたか?」
「もちろん」
この高揚感も、また懐かしい感覚。乃威くんは空を見上げてから、私の手を掴んで走り出した。驚きながら私が確認したのは、ポケットの中に携帯電話が入っているかどうか、ということだけ。どこに行くかは、彼に委ねることにした。だって、とても楽しそうに笑っているから。
走った先にあったのは、小さなお祭り。本当に小規模なお祭りで、かき氷やわたあめ、お面や金魚掬いなど定番中の定番の屋台が一つずつあるだけで、お客自体もとても少なくて数えるほど。両手があれば十分足りるほどの人数しか、そこにはいなかった。桜並木の真ん中にある小さなお祭り。
まるで、妖精しか知らない秘密のお祭りみたいで。少しだけわくわくしてきた。
「乃威くん、ここは?」
「友達に、今日ここでお祭りをやると聞いたので。是非歌織さんも誘いたいなと思ったんです」
照れたようにはにかむ乃威くんを見て、思わず私も顔が紅潮してしまった。そして、ふと気付いた。財布なんて持ってきていない。どうしようかな、と少し悩んでいると、繋いだ手をそのままにかき氷屋の前まで来た。
かき氷の時期にはまだ少し早いような気もするけど、乃威くんは何を頼むのかな。と興味津々に待っていると、屋台にいる真っ赤な椿の髪飾りをつけた黒髪美人さんにイチゴとレモンのかき氷を一つずつ頼んだ。二つなのかな、と首を捻ると、イチゴ味のかき氷を私に差し出してきた。
「いいの?」
「もちろんです」
「…ありがとう」
よく見てみると、シロップが赤い他にキラキラと黄色に光っているようにも見えた。何だろうとシャクシャクッとかき混ぜて食べてみると、とても爽やかな味わいが口に広がる。後味もどことなくすっきりしていて、シロップにはないはずのイチゴの酸味もうっすらと感じられた。不思議なシロップだなと思いながら、乃威くんと一緒に美味しそうに頬張る。途中、乃威くんからかき氷をわけてもらったりしながら、あっという間に時間は過ぎた。だいぶ夜遅くなってしまったな…とか携帯を確認しながら溜息をついた。
「歌織さん、少しここで待っていてくれませんか?」
「うん」
すぐ、戻ってきますから。と言って、乃威くんはその場から走って奥へと向かってしまった。何だかよくわからないけれど、彼なしでは家に帰ることはできないし、置いていく気もないから、待つことにした。暫くはストローを噛んで時間を潰していたのだが、帰ってくる気配がない。どうしたんだろうと不安になり始めると、手に何かを持って走って帰ってきた。
額や頬から汗を垂らしながら、乃威くんは手に持っていたそれを私に差し出した。そこには、綺麗で鮮やかな桜を象った髪留めがあった。とても神秘的なガラス細工で、すぐに割れてしまいそうで怖いくらい澄んでいた。
「歌織さんに似合うと思って…気に入っていただけましたか?」
不安そうに聞いてくる乃威くんを見上げて、込み上げてくる喜びを溢れさせた。
「すごく、嬉しいよ。もったいないくらい…」
もらった髪留めを眺めてから、軽くぱちんと留めてみる。似合う?と聞けば、とても。と、答えてくれる。それが嬉しかった。
けれど、彼のその美しい瞳が悲しそうに変わったことに気付いたのは、それほど時間は掛からなかった。
「それじゃぁ、そろそろ家に帰りましょうか」
「…うん」
わかっていた別れ。認めたくないけれど、彼にはまた暫く会えなくなってしまうのだろうと直感的にそう思った。とぼとぼと重くなってしまった足をなんとか動かして、乃威くんの手をぎゅうっと握りしめる。
「…今夜は楽しめましたか?」
「うん…すごく、楽しかった」
「それはよかった」
「…次はいつ会えるの?」