短編集 1
空が見える樹
幼い頃、俺は空を見た。
満天の星空。ではなく、望遠鏡で見たような、丸く切り取られたような空を。けれど、そこから見た星は俺の人生の中で一番美しく…
…―一番儚かったように、思えた。
それ以来、その場所には行ったことがなかった。母親に訊いても場所は知らないと言うし、父親もまた同じ答えだった。幼い頃、俺を連れて旅行に出掛けたことなどないと、口を揃えて言っているのだ。もちろんその答えに納得できるわけもなく、不信と不満を抱きながら、成長していった。あれほど美しい光景を目の当たりにして、もう一度行きたいと願わないわけがない。
「兄さん、いい加減諦めたら?ないんだよ、そんなところ。どうせ夢だったんでしょ?」
ソファに座ってネットで画像を探す俺に、妹が呆れたようにそう言ってきた。
「いや、しっかりこの目で見た。真っ暗な場所から星が見えたんだ」
降り注ぐような星々の輝きを。藍色のドレスに砕けた宝石を鏤(チリバ)めたような美しさを。あれを見て、あの光景がこの世に存在しなかったと言うならば理解できないことはない。それほどまでに幻想的だったのだから。けれど、見てもいない人間からそんなことを言われるのは、不快極まりない。
―どうせ夢だろ?
―妄想を現実と間違えたんじゃないの?
そんなことを言われるのは、不愉快だ。
だから、半分意地で、俺はあの場所を探している。
翌日、俺は眠たい目を擦りながら学校へと足を運んだ。何度となく瞬きをしながら校内へ入ると、丁度昇降口で見知った顔を見つけた。少し小走りになりながら彼の元へ向かうと、相手側もこちらに気付いたようだった。
「おはよ」
「はよっす……目充血してんぞ」
「……そういうこともある」
「毎日、な」
友人の明良は、呆れたように肩を竦(スク)めながらそう言った。別に、何をしようが俺の勝手だろうに。彼の態度に少し苛ついて、仏頂面になっているのを承知の上で明良の顔に視線をやる。
あの話をまともに聞いてくれたのは彼だけだ。それはよくわかっている。けれど、こうまで何も見つからないと、自信も何もなくなってしまいそうで。早く、一片の小さな欠片でもいい。手掛かりを見つけたいと、その気持ちばかりが先ゆくだけだった。
同時に、なんとなく感じていた。もう二度と、あの場所を見ることができないということを。どうして、と言われると首を傾げる。ただ、なんとなく、そう感じていた。
もう、二度と。
その場所に足は届かないと。
「で、見つかったん?」
「全然…」
「ふーん…そりゃ、残念だったなぁ。まぁ、何年も探してて見つからないんじゃ、どうしようもないか」
「諦めないかんな!」
「諦めろなんて言ってねぇっつぅーの。手伝うよ。今日は空いてる」
「マジで…?サンキュ!」
なんだかんだ言って、こうして手伝ってくれるこいつはいいやつだ。
学校が終わってから、明良の家へと向かう。これは一種の恒例行事になってしまったような気さえする。玄関はかなり広く、明るい。そのせいなのか、開放感が気持ちを清々しくさせる。
彼は有名な実業家の息子で、才覚もある。将来有望らしい。もちろん、この話は目の前を歩く明良から聞いたのではなく、彼の父親から聞いた自慢話だ。いつか、自分の跡を継いでもらうと。その時になっても、彼の良い友人でいてくれと。幼馴染みとして育った明良と俺だからわかることも、打ち明けられることもある。自分にはそういう存在がいなかったからこそ苦しんだ、と。
「雅、もっと早く歩けよ」
そう俺を振り向いて笑う明良を見て、笑いながら足を速めた。
『同じ道を歩まなくとも構わない。その代わり、あいつの隣にいてやってくれ』
2年前に言われたその言葉を思い出しながら、明良の背中を追った。
とんとんとん、と、リズム良く階段を上って暫く真っ直ぐ行った突き当たりが、彼の部屋だ。とても家とは思えない広さで、一戸建てで珠の汗を?く庶民の俺から見ると、改めてその大きさに圧倒する。幼い頃はよくかくれんぼをしたが、朝から始めて、お手伝いさんを総動員しても次の日になるまで見つけられず、禁止にされた記憶が引き出される。
ようやく彼の部屋に着いた。一部屋何十畳とある広さを何度となく見たが、やはり羨ましいと思った。
「で、確か欠片も記憶の星空を見つけられなかったんだっけ」
「そ」
明良の問いに頷いてから、ソファに座る。この高級感がなんとも言えない。思わず何度もバウンドしていると「それやるの小さい頃から変わらねぇな」と馬鹿にされたから大人しく座った。
「今まで誰も行ったことがない場所だったんじゃねーの?」
「…そうなんかね」
当時幼い俺が行くことができる場所なんて言ったら、限られると思うけれど。そういえば、草に埋もれてとても人が通れない地面を開拓していくように、よく道じゃない道を通ろうとして怒られていた。その時は、明良も一緒だったような気がする。一緒になって、冒険に行くような感覚で、地域をあちこち回っていた。時には夜遅くに帰って叱られたり、怒鳴られたりしながら、でも楽しいから止められなくて。
誰だって体験したことがあるだろう。
ちょっとやそっと怒られたって、見たことのない場所への好奇心に勝てずに向かって行くあの感覚。どうしようもないくらいにわくわくして、小さなドキドキした不安も含めて、初めて見る場所、物全てが新しくて、嬉しい。
迷ったっていい。
―…行きたい。この先を見てみたい。
そんな探求心。
「雅?お前聞いてる?」
「…ごめん、全っ然聞いてなかった」
「帰れ」
「いやだから悪かったって。この通り」
そう言って頭を下げると、またもや呆れたような溜息が返ってくる。こんなのも、日常茶飯事。
「旅行に行ったことがないなら、ここら辺で見たんじゃないかって話だよ」
「ここら辺…ねぇ…」
近場にそんな星が見えるような絶景スポットなどあっただろうか?あったら絶対にチェックしに行っているはずだ。
「この近くにないとでも考えてるだろ」
「お見通しかよ」
「当たり前。それに、そんなすぐ見つかったらお前だってこんな苦労してねぇだろうが」
明良の言う通りだ。
しかし、だからどうしろと?この辺は既に知り尽くしているし、見たことがない場所なんか工事されていたりしない限りないに等しい。
「お前、あそこ行ったか?」
「どこだよ」
「…えっとー…そこの山」
「山は登ってない」
あそこの山は立ち入り禁止と書かれている。理由は特に聞いたことはないけれど。
「光がないところからの空は絶景だ」
そう楽しそうに笑う明良を見ながら、俺は浅く頷いた。
「何も今日じゃなくても…」
暗闇の中、懐中電灯と鬱蒼とした木の間から僅かに零れ地上に落ちてくる月明かりを頼りに、草を掻き分けながら進んでいく。辺りは懐中電灯で照らさなければ全くわからないし、生き物の性なのか、こういった状況下におかれると小さな音でさえ過敏になってしまう。恐くないかと聞かれたら迷わず首を横に振るだろう。