短編集 1
ジェスター
(注※この小説はボーカロイドのオリジナル曲【ピエロ】を参考に制作した作品です)
「ダイジョウブ」
そう私を抱きかかえて起き上がらせたジェスターは、相も変わらず仮面を付けて、奥の表情も見せないまま言った。
「お嬢様は何がお気に召さないのですか」
「全て」
口を尖らせてそう言った私に、ジェスターは仮面の下で小さく笑った。
「お嬢様は私のことがお嫌いで、」
「何をしたら好きになってくださいますか」
首が肩についてしまうほど傾げて、クラウンの仮面を付けて、表情も見えない彼はそう聞いてきた。室内だろうと室外だろうと、馬鹿みたいな二股の帽子と白と黒の斑模様の異質な服は外していない。こんなフールをどうして宮殿においているのか、理解できなかった。こんな小国でも立派な一国で、その王の屋敷でもあるこの宮殿。お父様もお母様も、考えることが未だにわからない。私の後ろを着いて回る、同い年だと聞かされているこのジェスター。彼は鈍く、よく派手に転んでしまう。派手な衣装の人間が派手に転んでしまい、更になかなか立ち上がらない。そう思った瞬間に勢いよく立ち上がろうと、魚が足掻くような動きをする。本当に、見ていて滑稽に思えてくる。
それが、彼の存在理由なのだけれど。
あのジェスターが来たのは、私が10歳にも満たない頃。今の服とはまた違う服を着ていたけれど、彼の態度はほとんど変わらなかった。いつも私を笑わせようとしたり、お父様やお母様を笑わせようと冗談を言ったり。その時の私はいつも友達のように接してくれる彼と一緒にいるのが日常だったけれど、ある日、彼が転んだ私を軽々と抱き起こしてくれたあの時から、表情が見えないことの恐怖と切なさが、距離を取るようになってしまった。
「私があなたを好きになることはないわ」
「それは残念です、とても残念ですが、仕方がないことでもあるんですね」
「そうよ、仕方がないことなの」
そう言ってしまえば、彼は首を傾げてからぺこりと直角に頭を下げてから背を向けて走り出す。その背中がどこかいつもより滑稽に見えなくて、一度大きく息を吸ってはいた。思い通りにならない心臓が、うるさくて、適わない。
お付きであるメイドの1人が声を掛けてきて、ようやくディナーの用意ができたという知らせを受けたので、いつも通りホールに向かう。向かう途中の廊下の角に、帽子を取って俯いているジェスターの姿を見つけた。大きく肩を揺らして、泣いているのか、笑っているのか、苦しんでいるのかわからないけど。メイドに少し遅れると言って彼の元へ走った。
「どうしたの」
そう聞けば、びくっと驚いたように肩を震わせて、慌てたように帽子を被って、仮面を付けた。その行動が、私をひどく不快にさせた。
「お嬢様はもうディナーを召し上がられたのでしょうか、とても美味しかったですよ、とても」
「盗み食いでもしたの、あなた」
「そうです、なんて言いませんよ。私が食べるのは旦那様から頂いた物だけですよ。仕える身が盗み食いだなんて図々しいにも程がありましょう。首斬り覚悟ですね、バッスンと」
そう言って、何をどうしようと思ったのか、首を強打させたのは当てたのは階段の手すり。ジェスチャーという意味合いで首に手を横に当てて、切ると表したいのならわからなくもないが、自分の後ろにあった手すりに、わざわざ振り向いて首を当てるとは、正気の沙汰とは思えない。自身が想定したより痛かったのか、首に手を当てて蹲(ウズクマ)った。
これ以上は付き合っていられないと思い、踵を返そうとしたが、一つ気になっていた。彼が仮面を人前で外さない訳を。
「…ねえ、一つお願いをしてもいいかしら」
蹲っている彼と同じ目線の高さでそう聞くと、首を傾げてから頷いた。
「その仮面を外してみて」
そう言ったとき、すっとジェスターは立ち上がって踵を返した。
「お嬢様、料理が冷めてしまいますよ。それに、怒られてしまいます」
振り向いてこちらを向いた仮面は、相も変わらず、笑っていた。
夜遅く、時計の針が?を過ぎた頃に目が覚めてしまった私は、1人廊下を歩いていた。たまたまジェスターの部屋の前に通りかかった時、ほんの少し気になってしまって、思わず立ち止まった。何をしているのだろう、と自分に笑えてくる。けれど、そんなことを考えていたら、部屋の中から苦しんだような途切れ途切れの言葉が、微かに聞こえた。慌てて部屋の中に入ると、そこには散らばった本、撒き散らされた紙やインク、無残に壊された置物などが床に散乱していた。
「お…じょう、さま」
途切れ途切れに紡がれたその声は、部屋の隅から聞こえて、掻き乱された黒髪の後ろ姿を見てから、一歩、一歩と部屋の奥にいるジェスターの元へ向かう。今は仮面をしていないのか、頑なに私の方を見ようとしないけれど。
「来ないで」
そう言った言葉は震えていて、事実肩も震えていた。小さく悲しげに歪んだ笑顔の半分は、左手で覆われていた。どうしてそんなことができようか。
「泣いているところを見て、どうして放っておくことができるの」
いつかあなたが私に言ってくれたように。
「ダイジョウブだよ」
彼の背中に腕を回して、軽く抱きしめる。部屋の隅の壁に寄り掛かっていた彼は、力が抜けるようにずるずると床に座り込んだ。左手はずっと顔を覆ったままだけれど、手に持っていた置物の破片は彼の右手から転げ落ちた。小さく聞こえた、その声。涙を我慢するような、その声。
彼の肩に顔を埋めると震えている手を不器用に使いながら、私の背にも腕が回った。
「怖いんだ」
「…何が」
優しく問いかければ、私の肩が次第に濡れていくのがわかった。つい先程より、強く抱きしめれば、声を抑えて、涙を流す。
「……戯けるのが、俺の仕事だけど…それだけじゃないから」
只の笑われ者の宮殿仕えの道化師は、フールと呼ばれている。ジェスターは、詩人や透視者としての存在。もしくは、王が王という立場のせいで話すことのできない本音の聞き役。
強まっていく抱擁に、応える。
「俺は、こんな見てくれだし…ジェスターから外されたらもう行く場所なんて…ない」
「だから、怖いんだ…捨てられることが、嫌われる…ことが」
そう言って溢れる涙を抑えることができなくなって、しがみつくように、縋るように、抱きしめられた。彼も、1人の人間なんだ。
「…ダイジョウブって、あなたが言ってくれたじゃない」
「……誰に嫌われても、私はあなたのこと、好きよ。」
私が笑おうとしないのに、ずっと何度も笑わせようと滑稽なピエロ役を引き受けていたあなたが。
いつから1人で泣いていたの。いつからたった1人で耐えてきたの。ダイジョウブ、今度は私も一緒に泣いてあげる。ずっと、一緒にいてあげる。だから、辛いなら辛いと。苦しいなら苦しいと。泣きたいなら抱きしめて。寂しいなら、傍にいる。
「だから、1人で泣かないで」